2018年 8月巡礼記 その4 法然上人霊場巡り part2

皆様お疲れ様です。

 

 

今日のお話をブログに書きますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

実は今、もう足がパンパンなんです。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826215636j:image山を歩くには金剛杖は欠かせない遍路の習性

 

 

 

 

 

 

今朝6時にいつもの如くデブ巡礼者二人が、京橋を出発しまして。

 

 

 

京都の嵐山の奥、愛宕山を目指しました。。

 

 

 

 

 

 

清滝のバス停を過ぎ、アスファルトのある本当に細い車1台しか通れない登山道をいける所まで車でひた走ります。

 

四国で山道に慣れたハズのゲンさんがかなりキツかったという細い細い道でした。

 

 

 

 

やがて、
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本日いちばん初めの目的地

法然上人二十五霊場第18番札所 月ノ輪寺さまへ向かう登山口の前に到着します。

 


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正直、西国4番施福寺

新西国20番立木山寺が可愛く思えるくらいの山道でした。

 

 


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途中トイレも自動販売機もないので、トイレも済ませお茶も買ってタオルも持参する必要がありますよ。

 

登山道は荒れており、はっきり言って、しんどい!


九十九折れの階段が続き、25分ほど歩きました。
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途中の中間地点にはお地蔵さまがお出迎え。

 

 

 

 

 

何回か少しずつ休憩を取りながら

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826202944j:image登り始めて約1時間

 

 

 

 


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法然上人二十五霊場第18番札所 月ノ輪寺さまへ到着。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826212556j:image眺めは最高でっせ!

 

 

 

 

 

 

 

月輪寺(つきのわでら、がつりんじ)は、京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗の寺院。山号は鎌倉山かまくらやま、けんそうざん)。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は泰澄と伝える。

京都盆地の西にそびえる愛宕山(924m)の東方の深い山中に位置する山岳寺院である。かつては愛宕大権現白雲寺であった愛宕神社愛宕山山頂に位置する)との関係が深く、また空也法然九条兼実などのゆかりの寺として知られる。境内には親鸞の手植えと伝える時雨桜があり、シャクナゲの名所としても知られる。法然上人二十五霊跡第18番。


歴史
月輪寺は、京都盆地の西にそびえる愛宕山の東側の深い山中に位置する。京都市右京区に属するとはいえ、周囲にはこの寺以外に人家はなく、麓の清滝からは山道を徒歩で1時間30分ほどかけて登らねばならない。

月輪寺の創建について説明するためには、関係の深い愛宕神社愛宕権現)の歴史に触れねばならない。愛宕神社は、一般には火伏せの神として知られる神社で、近世以前には愛宕権現または白雲寺と呼ばれて神仏習合の信仰が行われ、修験道の道場であった。『山城名勝志』に引用される『白雲寺縁起』は愛宕権現の由来について次のように述べている。

文武天皇の大宝年間(701 - 704年)、役小角役行者)と雲遍上人という2人の人物が愛宕山麓の清滝に来ると、雷が鳴り、激しい雨が車軸のように降って、先へ進めなくなった。2人が祈祷を行うと、天は晴れ、大杉の上に天竺(インド)の日良、唐(中国)の善界、日本の太郎房という天狗の統領たちがそれぞれの眷属数万を率いて出現した。天狗たちは、「我々は2千年も昔に仏の命を受けてこの地を領し、人々を利益する者だ」と告げると、姿を消してしまった。雲遍はその大杉を「清滝四所明神」と称し、朝廷の命によって朝日峰(今の愛宕神社の地)に神廟を営んだ。これが愛宕権現の始まりであるという。

役小角修験道の開祖とされる人物であり、雲遍は後に泰澄上人と称され、加賀の霊場白山を開いたとされる人物で、両名ともに伝説的色彩の濃い人物である。

縁起によれば、その後、光仁天皇の勅により、天応元年(781年)、慶俊僧都和気清麻呂と協力して愛宕山を中興し、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を置いた。それらは、朝日峰の白雲寺、大鷲峰の月輪寺、高雄山の神願寺(神護寺)、龍上山(たつかみやま)の日輪寺、それに鎌倉山(賀魔蔵山とも)の伝法寺であったという。以上のことから、月輪寺では泰澄を開基、慶俊を中興としている。

平安時代には空也(903年 - 972年)が来山し、九条兼実(1149年 - 1207年)も当寺に隠棲したという。日本浄土宗の祖である法然(1133年 - 1212年)と親鸞(1173年 - 1263年)は、流罪(いわゆる承元の法難)になる前の承元元年(1207年)、月輪寺に兼実を訪ねて別離を惜しんだと伝えられる。

法然親鸞、兼実の3名は、別離に際してそれぞれが自身の像を刻んだと言い、各人の自刻像と称するものが「三祖像」として寺に伝わっている。ただし、法然像と親鸞像は江戸時代のものであり、伝・九条兼実像は像の制作自体は平安時代後期にさかのぼるものの、元来は僧形文殊菩薩像として造像されたものと思われる。

以上のように、月輪寺の草創縁起には伝説的要素が多く、中世以前の歴史については不明な点が多い。ただし、当寺には平安時代にさかのぼる仏像群が伝わり、もっとも古様な作風を示す十一面観音立像は10世紀にさかのぼる作と見られることから、空也が来山したと伝える10世紀頃には寺観が整っていたと見られる。

2012年7月の集中豪雨で境内に土砂崩れが発生し、権現堂などの建物にも被害があった。重要文化財の仏像を安置する宝物殿は無事であった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826210516j:image親鸞上人像
f:id:KOBANNAD:20180826210530j:image本堂

 

 

奥から尼僧のご住職様が出てこられました。

 

 

先代の住職様(現住職のお母様)が来るまでは、
人も住まない荒れ果てたお寺だったのを、
私財をなげうち、再興し、宝物館を建て、
他所に預けてあった仏像も迎え入れたそうです

 

大変なご苦労話を伺いました。

 

山火事の恐れがあるので、お風呂も夏場はなんとか水風呂で凌ぐが、

冬は身体を拭くだけ、乾布摩擦状態だとか、

 

生活物資は、週に一度、30kg 歩荷で担ぎ上げているとか

 

荷物自体も嵐山までわざわざ取りに行くとか

 

今は副住職様と二人で、
冬は零下17℃になり、多いときは2メートル近く雪の積もるこの地に住まわれて、檀家のない寺を守っておられるそうな

 

 

法然上人霊場でありながら天台宗のこのお寺に対して

 

天台宗総本山比叡山にいくら陳情してもほとんど何も援助もなく

 

 

京都府も国も何の保護や援助もなく

 

 

賽銭等の収入があるからとこのような過酷な生活を強いられるのに生活保護も受けれないとの話

 

 

 

 

 

 

 

 

巡礼者から高い入山料取って笈摺投げて寄越すようなどっかの腐った観光寺をはじめ、

『坊主丸儲け』

を地でいくような観光寺にもっと税金かけて、

 

訳のわからん在日とか外国人なんかに無意味な生活保護をやる必要もないから

ホンマに困ってるこういう方々の為に税金って使うべきもんやろ。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826212333j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

下りの山道は30分ほどで下りました。

 


f:id:KOBANNAD:20180826212515j:imageお約束(笑)

 

 

 

 

 

あまりに汗をかいたので、川で手拭いを濡らして身体を拭く。

気持ちいいー(*´ω`*)

 

 

 

 

 

 

 

そこから道なき道をまた車で下り。

 

 

 

 

街中へ戻って

 

 


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法然上人二十五霊場第17番札所 二尊院さま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野の二尊院門前にある天台宗の寺院。山号は小倉山。正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅葉の名所として知られる。また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。
歴史
平安時代初期の承和年間(834–847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった湛空らにより再興される。

嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際には、法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送された。

室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されている。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826213128j:image納経印

 

 

 

 

 

 

更に車で約3分ほどで

 

 

 

 


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法然上人二十五霊場第19番札所 法然寺さま

 

 

 

 

 

 

 

法然寺(ほうねんじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町にある、浄土宗の寺院である。 法然上人二十五霊跡第19番(熊谷入道護持の御影)。

歴史
蓮生(熊谷直実)が関東に帰る時、法然の姿を拝したいと御影を懇願した。法然は自作の木像を与えた。蓮生は故郷の熊谷(くまがい)に帰り、熊谷寺(ゆうこくじ)を建立した。その後蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、錦小路東洞院西の父貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

正安年間(1299年 - 1302年)に後伏見天皇が病気のとき、夢枕に法然が立ち、念仏をすれば病は平癒すると言ったので、そのとおりにすると、病気は治った。帝は当寺の法然像を見つけ、御所に召された。その時「極楽殿」の勅額を賜った。正親町天皇からは「熊谷山」の勅額も賜っている。その後天正19年(1591年)豊臣秀吉により、寺町仏光寺に移転。昭和36年(1961年)に現在地に移転した。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826213423j:image納経印

 

 

 

 

 

さて、本来ならばここで満願の予定やったんですが。

 

 

2番 高松の法然寺さま←西日本豪雨で行けなかった

8番 和歌山の報恩講寺さま←お盆前に行く予定だったがお寺の都合で行けなかった

 

 

 

ってことで後2ケ寺残っております。

 

 

 

 

 

実は8番和歌山の報恩講寺さまは、昨日電話で拝観予約をしておいたのです。

 

 

 

 

 

ってことでデブ二人は


f:id:KOBANNAD:20180826213831j:image京都のステーキのどんで600グラムのハンバーグとライスとパンとスープとドリンクバーをひたすら食べまくり、

 

 

 

 

 

一路和歌山(ほぼ大阪の岬町)へ

 

 

 

 

 

 

お約束の如くお腹いっぱいになったらゲンさんが運転してるにも関わらず助手席で爆睡かましちゃうアタシwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんやかんやと、言うてる間に


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本日の打ち納め。

 

 

 

法然上人二十五霊場第8番札所 報恩講寺さま。

 

 

 

88歳のおばあちゃん(自称)がお出迎え頂きました。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826214358j:imageおばあちゃんの力強い文字にひたすらありがたみを感じます。

 


f:id:KOBANNAD:20180826214440j:imageそして法然上人霊場唯一の御影を頂きました。

 

 

 

 

報恩講寺(ほうおんこうじ)は、和歌山県和歌山市大川にある西山浄土宗の寺院である。大川寺と通称する。法然上人二十五霊場第8番。

歴史
承元元年(1207年)12月、赦免になった法然は、翌承元2年(1208年)帰路につき、土佐から船に乗った。風雨が激しくなり、10月21日油生浜に漂着した。その時磯が瑠璃色に変じたという。それ以来この磯を「るりが浜」と呼ぶようになった。

法然は村の長者阿闍梨孫右衛門に迎えられた。長者は村人と共に、法然から念仏の教えを受けた。村人たちは念仏の教えを、深く信仰するようになった。法然は桜の木に自らの像を刻んだ。その時像の背を打つと、たちまち血が噴出したという。また法然はその時余った材料を使って、百万遍の大念珠を作り村人たちに与えたという。11月下旬法然は出帆した。

念仏を唱えることにより、この地は漁業で盛んになった。村人は喜び庵を建て法然の御影を安置し、念仏の霊場とした。この庵は大河堂と呼ばれた。後に報恩寺と号したが、さらに講の一字を加え、報恩講寺となった。毎年11月22日から3日間、法然上人着船記念円光大師大会式(だいえしき)を行う。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

帰り道

『平野台の湯 安庵』でひと風呂浴びて

↓↓

http://www.yasuda-kousan.com/hiranodai-an.html

 

 

 

そっから帰ってきて


f:id:KOBANNAD:20180826214818j:imageやはり肉の似合う男ゲンさん

 


f:id:KOBANNAD:20180826214854j:image厚切り塩タン

 

 

 

 

帰りにケーキを買うデブ二人。

 

 

 

 

『絶対お前ら口だけで痩せる気ないやろ』

ってご意見があると思いますが、平にご容赦頂きたく存じますwwwwwww

 

 

 

法然上人二十五霊場最後の1ケ寺は、来月末に四国遍路の予定がありますので、

その時に一緒に回る予定です。

 

 

 

ちなみにアタシは明日まで休みです。

ゲンさん仕事頑張れよー(笑)


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