2018年 8月巡礼記 その3 法然上人二十五霊場巡礼in京都

台風一過、皆様ご無事でございますでしょうか。

 

 

私夜中に目覚めてしまい眠れなくなってしまいブログを更新することにしました、KOBANNADでございます。

 

 

 

 

 

 

さて今回は8/19のお話でございます。

 

 

 

 

タイトル通り【法然上人二十五霊場】の京都のお寺に行ってまいりました。

 


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さて、そもそも法然上人さまとはどのようなお方やったのか。

 

 

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。

謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である。

選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

生涯
 
生い立ちと出家・授戒
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国と、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺京都市右京区嵯峨)や醍醐寺京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した。

これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修業をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修業中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。
浄土宗の開宗
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて岡崎の地にあった白河禅房(現・金戒光明寺)に入るが、間もなくして東山にあった吉水草庵に住んで、念仏の教えを広めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。
延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難
詳細は「承元の法難」を参照
元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。
讃岐配流と晩年
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。

承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に入り、吉水にもどった。

建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は現在の知恩院法然上人御廟の場所に建てられた。

法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王九条兼実、関東武士の津戸三郎為守(つのと)・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子・宇都宮頼綱らが著名である。
死後・嘉禄の法難
詳細は「嘉禄の法難」を参照
法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦広隆寺境内の来迎院)に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

ちなみに法然上人二十五霊場につきましては

 

 

 

 

 

法然上人二十五霊場(ほうねんしょうにんにじゅうごれいじょう)は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院が25箇所のほかに、番外である「縁故本山」と「特別霊場」が1箇所ずつあり、計27箇所となる。

円光大師二十五霊場とも言い、宝暦年中(1751年 - 1763年)のころ、大阪・難波の順阿、京都・洛西の廊誉という2人の僧の発起によって、法然と御縁の深い霊場二十五箇所を巡拝したことに始まるといわれ、1924年大正13年)に史実や記伝などに徴して若干の寺院の更改が行われたが、1959年(昭和34年)3月法然上人750回忌を迎えるに際して、『元祖法然上人霊蹟巡拝の栞』が刊行され遺跡を紹介しているが、宝暦年中のものを踏襲している。1974年(昭和49年)に浄土宗開宗800年を記念し、再興された。また、当霊場は浄土宗の寺院を中心にした巡拝であるが、法然の御霊跡を巡る霊場であるので真言宗天台宗などの寺院も含まれている。

札所は中国・四国地方から近畿地方に渡る。また、二十五箇所の霊場を巡拝するのは、法然上人御入寂の御命日である1月25日や、念仏来迎の聖衆の二十五菩薩の数にちなむとの説である。(Wikipediaより)

 

 

http://www.25reijo.jp/    ←公式サイト

 

 

 

 

 

 

以前のブログでも書いた話ですが、

ゲンさんと京都の寺社仏閣巡りをしていた時に知恩院さまに行きまして。

 

ゲンさんの実家が浄土宗なこともありまして、その時から始めさせておりますが。

 

 

なにせここんとこ大雨だのなんだのと予定が狂うパターンが多くてw

 

 

 

 

今回は京都をがっつりと回ってきました。

 

 

 

 

 

 

まずはいつもの如くデブ遍路……ではなく

2名のデブ巡礼者がレンタカー借りてまずは比叡山

 

 

 

 

 

 

比叡山の東塔、西塔を抜け先日行った横川の手前に


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ここから山道を徒歩で下って行きます。


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f:id:KOBANNAD:20180825031412j:image片道15分くらいかかりましたね。


 

 


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特別霊場  青龍寺さま

 

 

 

青龍寺(せいりゅうじ)は、滋賀県大津市の郊外、比叡山西塔北の谷にある寺院である(所在地については後述)。黒谷青龍寺ともいう。法然上人二十五霊場の特別霊場。大黒天出現の地という伝承から、大黒天を安置し、大黒谷と呼ばれていたのが黒谷となったという。京都の金戒光明寺の地を黒谷というようになったことから、元黒谷といわれている。天台宗であるが、浄土宗総本山の知恩院が管理を行っている。

比叡山延暦寺は東塔、西塔、横川(よかわ)の3地区に分かれ、それぞれがさらに「○○谷」と称される小地区に分かれる。これらを総称して「三塔十六谷」というが、これらとは別に、「三塔十六谷」に含まれない「別所」が2か所(黒谷、安楽谷)ある。青龍寺はこのうちの黒谷別所に位置する。黒谷は西塔の釈迦堂から北に約1.5㎞離れた山中である。青龍寺の位置は京都府滋賀県境にまたがる比叡山京都市側にあり、行政区分のうえでは京都市左京区八瀬秋元町に位置するが、住所の表示は延暦寺と同じく「滋賀県大津市坂本本町4220」となっている。

開基は天台座主良源(慈恵大師、通称元三大師)と伝える。久安6年(1150年)法然が18歳のとき、青龍寺の叡空の門に入った。叡空は彼を「法然源空」と名づけた。法然は承安5年(1175年)43歳のとき浄土宗開宗に至るまで、そこを経典の探求の地とした。織田信長比叡山焼き討ち元亀2年(1571年)により、法然房の建物は燒失した。当時法然の墓もあったという。現在ここには一切経を納める報恩蔵がある。この霊蹟は比叡山延暦寺の好意で、浄土宗総本山知恩院が、昭和42年(1967年)青少年修練道場として再興した。若い世代に念仏信仰を伝えており、浄土宗系の高校などが使用している。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825032025j:image納経印

お寺まで山道を下ってきたということは、帰り道は必然的に登りになるという話(´;ω;`)

 

 

既にデブ二人足パンパン( ;∀;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして三千院で有名な大原の地を目指す途中でゲンさんがネズミ取りに引っかかるwwwwwww

 

 

 

スピード違反wwwwwww

 

 

 

 

ドンマイwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

三千院の前を通りすぐの場所にあります

 


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f:id:KOBANNAD:20180825032525j:imageゲンさんの背中が寂しそうだよねw

 

 


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法然上人二十五霊場第21番札所 勝林院さま

 

 

 

勝林院(しょうりんいん)は、京都府京都市左京区大原三千院の北にある天台宗の寺院。魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)と号する。魚山は大原の円融院、往生極楽院、勝林院、来迎院、融通念仏寺などの諸寺院の汎称で、声明の中心地であった中国の長安の外にある山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名称に由来する。本尊は阿弥陀如来法然上人二十五霊跡第21番札所。別称として「問答寺」、「証拠堂」とも呼ばれる。古くから来迎院(左京区大原来迎院町)とともに天台声明の道場であった。

歴史
この寺は、承和2年(835年)、円仁(慈覚大師)によって開かれたと伝えられる。円仁は唐で経典などに独特の旋律を付けて唱える声明を学んできており、この地にそれを伝えた。しかし、その後寺は荒廃してしまう。

長和2年(1013年)、寂源によって復興され、勝林院が建立された。その際、寂源はここを声明研鑽の地としたので声明も復興された。聖応太師良忍が天仁2年(1109年)に来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て「魚山大原寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。

文治2年(1186年)には法然と顕真などによる宗論、いわゆる「大原問答」がこの寺で行われた。

江戸時代初期、将軍徳川家光の時代に春日局の願によりお江の方、崇源院の菩提のために本堂が再建された。享保21年(1736年)正月の火災により本堂は焼失するが、安永7年(1778年)に再建される。江戸時代には4坊(理覚坊・実光坊・法泉坊・普暁坊)があったが、現在は宝泉院・実光院の2院が残る。
大原問答
寛仁4年(1020年)、寂源が延暦寺の僧である覚超と遍救を招請して、勝林院の本堂で法華八講を開いた。大原入道少将と呼ばれた寂源の名前にちなんで、これを「大原談義」と称した。この時、本尊が自身の意を放光によって表したので、集まった聴衆が大いに驚いたという。それより、本尊は「証拠の阿弥陀」と称されるようになった。
文治2年(1186年)、顕真の招請により、勝林院で法然が浄土宗義について明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたっての問答が行われた。これを「大原問答」という。顕真らが法然に12の難問を投げかけていったものであるが、法然はそれらに対して念仏によって極楽浄土へ往生できることをはっきりと示した。その時に、本尊の阿弥陀如来が光を放って法然の主張が正しいことを証明してみせたという。そのため本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。
念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825032939j:image納経印が【大原問答】ってのも面白い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に車は京都市内へ

 



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百万遍さんで有名な 法然上人二十五霊場第22番札所 知恩寺さま

 

 

 

知恩寺(ちおんじ)は、京都市左京区田中門前町にある浄土宗七大本山の寺院。百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)と称され[要出典]、単に百万遍とも通称する。山号は長徳山。院号は功徳院。本尊は阿弥陀如来。京都における浄土宗四ヶ本山のひとつであり、法然上人二十五霊跡第22番札所でもある。御詠歌「われはただ仏にいつか葵草 心のつまに掛けぬ日ぞなき」。「百万遍」は付近の交差点名及び通称地名にもなっている

もとは皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川京都市上京区、現在の相国寺付近)にあった。その所在地から、賀茂の河原屋といった。円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。

法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。

1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により空円が念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。皇室の篤い帰崇を受け、国家安穏を祈願する祈願所となった。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区油小路通一条上るに元百万遍町の町名が残る)。

1523年(大永8年)頃、知恩院と本寺争いをして敗れ、第一の座次を知恩院に譲る。

1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通荒神口上る)に移された[要出典]。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)、現在地で再興された。

1995年に京都府指定有形文化財に指定。2017年、建造物9棟(御影堂・釈迦堂・阿弥陀堂・御廟・勢至堂・鎮守堂・鐘楼・惣門・西門)が国の重要文化財に指定された。
境内
南門から参道を入って正面に御影堂、手前左手に阿弥陀堂、右手に釈迦堂があり、左右には塔頭寺院が並ぶ。境内には、土佐光起の墓、鳥居元忠の墓(塔頭龍見院内)などがある。

境内や本堂・庫裡はしばしばフリーマーケットの会場として貸し出されており、特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(会期は概ね10月末から11月初めまで)の会場となっていることで知られている。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825033543j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして更に、法然上人二十五霊場第23番札所 大本山 清浄華院さま

 

 

 

 


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清浄華院(しょうじょうけいん)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四箇本山(他に知恩院知恩寺金戒光明寺)の一つである。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。寺伝によれば平安時代清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊跡23番である。2012年現在の法主大正大学名誉教授の真野龍海。

草創
清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華)密(密教)浄(浄土)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇後鳥羽天皇高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない。

皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。
歴史
清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される。

少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。

向阿は初め三井寺にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院丹波国越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。

その後、清浄華院は14世紀中頃に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は(暦応4年(1341年)足利尊氏後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であったなど諸説あるが、少なくとも観応二年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。

いずれにしろ清浄華院室町時代を通して京のメインストリートであった室町通りに面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。

こうした立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等凞は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。これは等凞の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。さらに等凞は義教の将軍就任以前からの知己であったことにも由来すると考えられている。このあたりの事情は檀越の一人で等凞と親しい関係にあった万里小路時房による『建内記』に詳しい。

等凞の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流の本山」とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。

当時の京都における浄土宗は、幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、また浄土宗内でも当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が貴顕の帰依を集め大きな勢力を持ちっていた。そのため朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した鎮西派寺院は清浄華院の他にはなかったのである。しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。

しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。 天正年間(1573年-1592年)豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に新黒谷へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。一方、そんな清浄華院の衰微とは対照的に、知恩寺知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。

江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、紫衣勅許も徳川幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。

しかしながら皇子・皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院や開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・文仁親王常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。

当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家、山科家、東園家、姉小路家、甘露寺家、松木(中御門)家、嵯峨(正親町三条)家、堤家、山本家、下冷泉家、六角家、坊城家、錦織家、玉松家等がある。地下家や宮家の諸大夫、家司、地下役人の檀家も多かった。

伽藍は寛文期の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため御所の格式と同様の建築物を誇った。

また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保期には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウの宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩薩摩藩会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。

明治期に入ると明治初年まで戊辰戦争薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、明治44年法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034039j:image納経印

 

へたうま(*´ω`*)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして洛陽の札所でもありましたね、

法然上人二十五霊場第24番札所 くろだにさんこと 金戒光明寺さま。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034240j:imageやはり背中が寂しそうだ(´;ω;`)

 

 


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相変わらず立派な本堂です。

 

 

 

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院知恩寺清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族・公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。

歴史
承安5年(1175年)春、法然比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然は、ここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は、後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。江戸時代初期に城郭構造に改修された。文久2年(1862年)には、京都守護職の本陣となった。第二次大戦後、「黒谷浄土宗」として一派独立するが、現在は浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034553j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、更に京都の町をゆくデブ二人。

 

 

 

 

法然上人霊場 縁故本山 永観堂禅林寺


f:id:KOBANNAD:20180825034645j:imageゲンさん「コバさん、腹減りました!」

 

…………まぁメシ食えるんなら大丈夫やなwwwwwww

 


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はいはい入場料入場料wwwwwww

 

あー、この雰囲気。

まさに観光寺wwwwwww



 

中に入って納経帳預けるパターンね、金閣寺とかと同じパターンね、はいはい観光寺観光寺。

 

 

 

で、その納経帳預ける時のオバハンの態度悪い悪い悪い悪いwwwwwww

 

 

思わず「法然上人霊場でこんな態度の悪い扱い受けたんは初めてやのう!霊場会に電話したろか、コラ」って大人気なく吠えてしまいましたすいませんw

 

 

 

……だが反省はしていないw

 

金儲けに必死な寺って一定数あるよねぇ。


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禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

歴史
空海弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初真言の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033年 - 1111年)の時に念仏の寺へ変化を遂げる。永観は文章博士の源国経の子として生まれた。11歳で禅林寺の深観(花山天皇皇子)に弟子入りし、東大寺南都六宗のうちの三論宗を学ぶ。三論宗には奈良時代の智光以来の浄土教の思想があるが、浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に戻るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、東五条の悲田院の近くの薬王寺阿弥陀像を安置して、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。禅林寺永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。

禅林寺12世の静遍僧都(1166年 - 1224年)は、もと真言宗の僧で、当初は法然を批判していたが、後に法然に帰依して念仏門に入った。法然禅林寺に住したことはないが、静遍は禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。

明治9年(1876年)には禅林寺浄土宗西山派の東本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂した。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825035833j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に


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法然上人二十五霊場第14番札所 正林寺さま。

 

 

 

正林寺(しょうりんじ)は、京都市東山区渋谷(しぶたに)通東大路東入3丁目上馬町(かみうまちょう)にある、浄土宗の寺院である。ここには、平重盛(小松殿)の別邸で、48の灯籠をともして念仏させたという灯籠堂のあったところで、平家没落後、九条兼実の山荘となっていた。ここに法然を招き、法談をし、法然を戒師として兼実が剃髪出家した旧跡である。法然がここに居住していたこともあるという。法然上人二十五霊跡第14番。

歴史
ここには、もとは平重盛の別邸で、後に九条兼実の山荘となっていた。建仁2年(1202年)正月、ここで法然を戒師として兼実が出家した。元久2年(1205年)8月、法然が瘧(おこり)をわずらい、その時聖覚が修法を施したという。建永2年(1207年)3月、四国に流罪の時も当御房から出発した。応仁の乱で、ここは灰燼に帰した。義山が復興に努め、弟子の恵空が遺志をつぎ、真盛辻子にあった正林寺を移した。享保20年(1735年)九条家より河原殿の建物が移築され、大師堂・方丈などになった。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825040238j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

そして昼飯は京都ローカルラーメンチェーン店の天天有の祇園店へ。

 

 

 

何年ぶりやろwwwwwww

 

 

 

 

 

 

車は伏見へ

 

 

 

 

 


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法然上人二十五霊場第15番札所 源空寺さま

 

 

来る途中であるサイトの口コミに

「やたらお寺のオバチャンがお守りとかお菓子とか買わせようとセールストークかましてくる」

って書いてあってマジかよと思ってたら

 

……………はい、マジでしたw

 

 

ゲンさん引いてましたwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源空寺(げんくうじ)は 京都府京都市伏見区瀬戸物町にある、浄土宗の寺院である。詳しくは宝海山法然院源空寺と称する。法然上人二十五霊跡第15番。

歴史
源空寺は、寺伝によれば、蓮乗房忍空が住持する草庵だった。忍空は当初法然の「選択集」を非難したが、後に後悔して、専修念仏を行じていた。法然63歳の時、奈良東大寺の大仏殿、再建落慶供養の導師を努めた後、帰途、忍空に請われるままに、宿泊し説法をした。それを聞いた木幡の里の人びとは涙を流し、念仏の教えに帰依した。人びとが法然の御影を欲しがったので、法然は、書写して法語を書きためておいた紙を用いて、「張貫の御影」を作り、忍空に与えた。建久6年(1195年)、忍苦は草庵を念仏道場に改め、御影を安置した。慶長17年(1612年)幡随意が徳川家康に願い出て、当地に移転した。その後、嘉永元年(1848年)に火災で焼失している。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825040940j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

さて、この日の打ち納めです。

 

 

西国三十三観音霊場 善峯寺さま

新西国霊場 柳谷観音さま

と並んで長岡京あたりを西山といいますがこの地で有名な

 

法然上人二十五霊場第16番札所 光明寺さま。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180825041245j:imageいや、広いわ


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f:id:KOBANNAD:20180825041323j:imageこちらも立派な本堂です。

 



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光明寺(こうみょうじ)は、京都府長岡京市粟生にある寺院。西山浄土宗の総本山。法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である。また紅葉の名所としても広く知られる。

奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。

そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」と言われている。

その後、法然を慕い帰依した弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198年)に法然ゆかりの当地に念仏三昧堂を建立したのが光明寺の直接の始まりである。のちの嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという。

法然の弟子である西山上人証空が西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が、証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えだし、光明寺の他に禅林寺永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。

明治9年(1876年)には光明寺浄土宗西山派の西本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至る。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825041543j:image納経印

 

 

 

 

 

帰り道は茨木のすみれの湯で温泉につかり

京橋で蕎麦食って帰りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲンさんが罰金で凹んでますwwwwwww

 


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アニメ【ゆるゆり】の綾乃ちゃんばりにゲンさんの顔見たら『罰金バッキンガム』言うてやって下さいwwwwwwwwwwwwww