2018年 8月巡礼記 西国、新西国、法然上人霊場

ふぅ。

 

やっと8月のお話が書けそうです。

 

先月もこんなこと言ってたね、とかツッコミは御容赦下さい。

 

 

 

 

 

 

まずは8/1デース!

 

 

 

 


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仕事辞めてまぁ現在もそうなんですが、1ヶ月以上有給休暇の消化期間がありまして。

 

正直ゲンさんには『夏休み』だの『ニート』だの『自宅警備員』だのと羨ましさを込めたイヤミを言われておる今日この頃ですwwwwwww

 

 

 

 

 

 

実は今年西国の先達の八角朱印を全て集めると1巡扱いになりますが。

先日【満願霊場】の33番谷汲さんで伺ったところ

 

「すいません、先達事務局のあるお寺でしかそれ(八角朱印)の昇補の対応出来ないんですわ」

 

 

何の為の満願霊場やねんって言いかけて止めましたがww

 

 

っていうことで、この日19番革堂行願寺さまを訪れて

 

先達の納経軸に特別昇補の印を頂きまして
f:id:KOBANNAD:20180815132848j:image一番左上のヤツね。

 


f:id:KOBANNAD:20180815133111j:image中先達の申請用紙も頂いたのであります。

 

 

 

 

 

 

 

さて、8/5のお話デース!

 

 

 

 

朝からいつも通りゲンさんとカーチャンを迎えに行きまして

 

 

生駒の山を越え向かいますは

法然上人霊場第11番札所


f:id:KOBANNAD:20180815133342j:image大仏さまで有名

子供でも知ってます

華厳宗総本山奈良東大寺にあります


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f:id:KOBANNAD:20180815133531j:image東大寺指図堂

 

指図堂

 

大仏殿の西にある。法然の画像を祀る堂。鎌倉時代、大仏の復興に携わった重源は、法然の推挙で大仏復興の大勧進職となった。この堂に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたことから指図堂の名が付いたという。浄土教にも関心の強かった重源の招きで法然がこの地で浄土三部経を講じたという。もとこの堂にあった木造釈迦如来坐像(鎌倉時代重要文化財)は奈良国立博物館に寄託されている。建物は江戸時代末期のものであるが、法然上人二十五霊場11番札所であるため、浄土宗側が喜捨等で再建に協力している。(Wikipediaより)

 


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f:id:KOBANNAD:20180815133943j:image中も写真撮って良いよー、と気さくにオバチャンが言ってくれまりました。

 


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f:id:KOBANNAD:20180815134102j:imageよく見ると阿弥陀さまが傾いています。

地震とかで傾いた訳ではなくこういう造りなんだそうです。

 

我々に体を傾けて耳を傾けて下さっておられるとの事。

 

 

「スキーのジャンプみたいやろ」

ってオバチャンの持ちネタなんやろなぁwwwwwww

 

 



f:id:KOBANNAD:20180815134426j:image納経印

 

 

 

さて、そのまま西国霊場第9番札所 興福寺南円堂さまへ。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815134550j:image金堂の修復もほぼ終わりそうですね。

10月には落慶法要が行われるそうです。


f:id:KOBANNAD:20180815134715j:image金髪の欧米の方が御朱印貰ってました。

なかなかすごいな御朱印ブームw

 

外人さんかスタンプラリーになっちゃうのはまぁ仕方ないかなと思うとこもありますが、

中にはお経上げはる方も居ますからねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

で、

大和三山百人一首持統天皇の歌でも有名な香久山を目指します。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815135048j:image法然上人霊場第10番札所 香久山 法然寺さま。

 

 

少林院法然寺(ほうねんじ)は、奈良県橿原市の香久山(大和三山)の麓にある浄土宗の寺院。法然上人二十五霊場の第十番。御詠歌は「極楽へつとめて早く出でたたば身の終わりには参りつきなん」。

元久2年(1205年)3月、法然高野山参詣からの帰途、聖徳太子が誕生したと言われている橘寺への巡拝のおりに庵に一夜の宿泊をした。庵主は法然に帰依し行者と成り、法然を開山とした。
明応8年(1499年)10月、知恩院の保誉は霊夢で「香久山や麓の寺はせまけれど 高きみのりを説きて弘めむ」との歌を法然から授かった。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815135312j:image納経印

 

 

 

 

 

更に南都の地を車は走る。

 

 

 

 

 

 

法然上人霊場第9番札所

新西国霊場第11番札所

當麻寺(たいまでら)


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當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。

西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

大和七福八宝めぐり(三輪明神長谷寺信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊安倍文殊院、おふさ観音、談山神社久米寺)の一つに数えられる。

本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。

中将姫の蓮糸曼荼羅当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。

古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。

當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
創建縁起
当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。

建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。
平安時代以降
奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく、詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。『弘法大師年譜』には弘仁14年(823年)、空海當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺真言宗寺院となったという伝えがある。

治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺興福寺などの伽藍の大部分が焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂、講堂など、一部の堂宇を焼失した。

平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新西国の霊場は本堂ですが
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法然上人霊場奥の院になります(別途入山料が必要)


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f:id:KOBANNAD:20180815135933j:image蓮の花が美しく咲いていました。


 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815140006j:image法然上人納経印

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815140052j:image新西国納経印


 

 

 

 

 

さて、一路山を越え大阪に戻ってきた3人はひとまず中華屋さんで昼御飯を食べて、

 

 

 

 

 

 

 


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新西国霊場客番 叡福寺さま。

 


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聖徳太子さまの御廟があるので有名ですね。

 

 

 

叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられている。

この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇用明天皇推古天皇孝徳天皇の陵もある。

寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。

叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また聖徳太子は、仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海良忍親鸞日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。

当寺は、天正2年(1574年)の織田信長による兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(1596年 - 1615年)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。

 

 

太子廟の七不思議
1樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
2鳥が巣を造らない。
3大雨が降っても御廟の土が崩れない。
4御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
5メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後の天喜2年(1054年)に発見された。
6御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
7寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。

 

 

生誕地の橘寺と叡福寺と兵庫県太子町の斑鳩寺とは一直線に並ぶ。
花山法皇は、叡福寺の僧といわれる仏眼の導きを得て西国三十三所を復興した。(Wikipediaより)

 


f:id:KOBANNAD:20180815141246j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

さて、この叡福寺さまから道路を挟んで向かい側に


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f:id:KOBANNAD:20180815141455j:image新西国霊場第8番札所 西方院さま。


 

 

西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向山、寺号は法楽寺。

寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、推古天皇30年(622年)に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。

以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は司馬達等の娘、恵善尼は錦織壺の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の豊浦寺である。

江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称は西方院と改められた。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815141708j:image納経印

 

 

 

 

 

この日大阪は36度を超える真夏日

 

しかしウチのカーチャンタフだよねぇ。来年70歳なのにw

 

 

 

 

 

 

 

さて、次は
f:id:KOBANNAD:20180815141922j:image楠木正成公がお迎え頂けます。


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新西国霊場客番 観心寺さま。

 

 

 

 

観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている

伝承では、大宝元年(701年)、役小角役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。

弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。

観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていた。

観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。

境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。

室町時代以降は、管領畠山氏の庇護を受けて栄えたが、戦国時代に入ると織田信長に寺領を没収された。しかし文禄3年(1594年)豊臣秀吉によって25石の寄進を受け、豊臣秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われた。江戸時代になると、塔頭槙本院の檀家であった江戸幕府の旗本甲斐庄氏などの支えにより、伽藍の維持に努めた。

安永年間(1772年 - 1781年)には30余りあった塔頭は慶応年間(1865年 - 1868年)には12坊となり、明治時代となって廃仏毀釈が始まるとさらに減り、現在では本坊となった槙本院の他には中院を残すのみである。

2005年(平成17年)には高野山真言宗総本山金剛峯寺より遺跡本山の寺格が贈与された。(Wikipediaより)

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815142331j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、更に山道をゆきます

 

 

 

新西国霊場第7番札所 金剛寺さま。


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金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派大本山である。山号は天野山(あまのさん)。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている

寺伝ではインドのアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする。奈良時代天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる。弘法大師空海)も修行をしたとされている。平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、治承4年(1180年)には地元の武士である源貞弘から土地を寄進されるなどし、金堂・御影堂などを建立し、再興した。八条院の帰依を受けたほか、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため、「女人高野」と呼ばれて有名となった。

鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。また、この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。また、室町幕府に追われた後醍醐天皇の護持僧である文観をかくまっている。

正平9年/文和3年(1354年)3月には大和国賀名生から北朝光厳上皇・光明上皇・崇光上皇廃太子直仁親王を当寺に移動させると観蔵院をその行宮とし、10月には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として食堂を政庁天野殿(あまのでん)とするなどして南朝の本拠地とした。

正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇直仁親王も京都に返された。そして正平14年/延文4年(1359年)12月には後村上天皇観心寺に移った。

正平15年/延文5年(1360年)には北朝の畠山氏の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失する。さらに、文中2年/応安6年(1373年)には、和平に反対する長慶天皇が行在所としていた当寺に、和平派ゆえに北朝に寝返った楠木正儀があえて攻撃を加え、天皇を当寺から除かせて、しばらくの間占領する事件も起きた。

その後は戦火に遭うこともなく、室町時代の永享4年(1432年)頃からは銘酒天野酒を販売して収入源にしたりし、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70もあって威勢を誇り、江戸時代末期には307石の寺領があった。

しかし、明治時代となって廃仏毀釈のためもあり、塔頭は減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみである。

それでも、主要伽藍などが戦火に掛からなかったので貴重な文化財が数多く残されている。(Wikipediaより)



 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815142951j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの日最後の打ち納め

 

 

 

 

 

西国霊場第5番札所 葛井寺

 

 

 

 


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更に8/7のお話デース!

 

 

 

残すところ後1ヶ寺となった新西国霊場

 

 

 

 

 


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大好きな京阪プレミアムカーに乗り出町柳へ。

 

 

そこから叡山電鉄に乗り換えます。


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f:id:KOBANNAD:20180815150844j:image叡山電鉄出町柳駅構内

 

 

 

そして
f:id:KOBANNAD:20180815150945j:image鞍馬駅を降りれば目的地

 

 


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新西国霊場第19番札所 鞍馬寺

 

 

 

 


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鞍馬寺(くらまでら)は、日本の京都府京都市左京区鞍馬本町に所在する寺である。1949年までは天台宗に属したが、以降、独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山(くらまやま)。鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)によって開山されたという。本尊は、寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。

京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。

なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。
歴史
寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。

今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたもの?)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。

9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようである。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。

鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失している。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失している。このため、堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。

昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。

京都の奥にある鞍馬山山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものでありまた鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。
本尊
京都の北に位置する鞍馬寺は、もともと毘沙門天(四天王のうち北方を守護する)を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった。しかし、鞍馬弘教立教後の現在の鞍馬寺の信仰形態は独特のもので、本尊についても若干の説明を要する。

鞍馬弘教立教後の寺の説明によると、鞍馬寺本殿金堂(本堂)の本尊は「尊天」であるとされる。堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらの三身を一体として「尊天」と称している。「尊天」とは「すべての生命の生かし存在させる宇宙エネルギー」であるとする。また、毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」・千手観世音を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としている。鞍馬寺とは、どこにでも存在する「尊天」のパワーが特に多い場所にして、そのパワーに包まれるための道場であるとしている。「尊天」のひとり、「護法魔王尊」(サナート・クマラ)とは、650万年前(「650年」の間違いではない)、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるという。

本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊はいずれも秘仏であり60年に一度丙寅の年のみ開帳されるが、秘仏厨子の前に「お前立ち」と称する代わりの像が常時安置されている。お前立ちの魔王尊像は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で、鼻が高い。光背は木の葉でできている。多宝塔に安置の護法魔王尊像も同じような姿をしている。このことから「鞍馬天狗」とはもともと護法魔王尊であったと思われる。また、16歳とされているわりに歳をとった姿をしている。(Wikipediaより)

 

 

 

そして


f:id:KOBANNAD:20180815151400j:image新西国霊場 満願致しました!


f:id:KOBANNAD:20180815140034j:image納経印

 

 

 

鞍馬寺境内には

 

由岐神社という神社もあり、御朱印も頂けます。
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由岐神社(ゆきじんじゃ)は、京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。通称靫明神(ゆきみょうじん)。

基本データ: 所在地, 位置 …
大己貴命少彦名命主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。
歴史
祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。

「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中の五條天神社は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五條天神社は祭神が同じである。
境内
本殿と拝殿は、豊臣秀頼により再建。特に拝殿は、割拝殿形式の桃山建築で、国の重要文化財に指定されている。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815151918j:image門前の食堂で親子丼ととろろそばを頂いてまいりました。