2018年 7月 熊野三山&西国青岸渡寺参拝 東寺四国別格霊場出開帳。

 

 

やっと追いついた(* ̄▽ ̄)ノ~~ ♪

 

 

 

ではこないだの日曜日のお話にまいります。

 

 

 

 

明け方から出かけまして。

ゲンさんの運転で、カーチャンも一緒に。

 

 

和歌山は那智勝浦を目指してスタートしました。

 

 

 

 

その前に。

 

 

実はウチのカーチャンもゲンさんも西国の先達になれまして。

 

やっと先達専用頭陀袋、輪袈裟等届いておりまして。

 

 

今回も一番からスタート、というお話でございます。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705223651j:imageってことでますば西国霊場第1番札所 言わずもがな青岸渡寺


f:id:KOBANNAD:20180705223922j:image車で行くと階段ショートカット出来るのね。

 


f:id:KOBANNAD:20180705223955j:image本堂は工事中(´;ω;`)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705224039j:imageちなみにアタシのシャツ。

千手観音さまです。

しかも受注してから手染めで作って下さるという。

 

後、不動明王さまと大日如来さまのと注文してこの2日前にやっと到着したところ。

 

 

 



f:id:KOBANNAD:20180705224408j:image八角朱印

 

 

 

で、すぐ隣の那智大社さまへ。

 

 

 

 

 


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こちらも本殿工事中(´;ω;`)

 

 

 

 

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現十三所権現那智山権現ともいう

参道の長い石段の上は、右に青岸渡寺があり、左は朱の大鳥居と大社の境内が続いている。拝殿の奥には鈴門・瑞垣を挟んで本殿があり、向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。正殿の第四殿が最も大きく、若宮の左手前には第六殿(八社殿)がある。

なお、現在は山の上に社殿があるものの、後述のように元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられる。那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興した。青岸渡寺は西国一番札所である。那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺や熊野三所権現(渚王子)がある。

熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。

一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。

祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。

806年(大同元年)の『新抄格勅符抄』には766年(天平神護2年熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。 しかし、その後は貞観元年(859年)1月27日、同年5月28日、貞観5年(863年)3月2日の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。延長5年(927年)延喜式神名帳牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。

一方、永観2年(984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年(1083年)9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。
那智一山の組織
那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊風土記』などによれば、那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、那智山は、その全員が社僧という修験者達の霊場であった。中世に入り、熊野三山を管理する京都の熊野三山検校の下で那智一山の管理組織(那智執行・滝本執行・宿老・在庁にもとづく合議制度)が整備された。近世に入り社僧が東座と西座に分けられたが、両座にはそれぞれ東の長官、西の長官が置かれ、執行と呼ばれつつ一山を管理した。また両座の下には10人で構成する宿老をはじめ、12人の講誦、75人の衆徒、66人の滝衆、85人の行人、12人の如法道場役人と7人の穀屋(本願)などがいて組織を構成した。

紀伊風土記』によると、近世のある時期に東座執行を受け持ったのは潮崎尊勝院で、山内でも最重要とされる飛滝権現を祀り、滝衆や行人を統轄し、近世のある時期に、西座の執行を西仙滝院が担当した後、米良実方院に替わったという。 尊勝院・実方院および御師と呼ばれる坊・院は、中世・近世を通じ、全国各地の旦那(檀那)場からの参詣者を泊める宿坊を営んでいた。
三山成立以降
『長秋記』長承3年(1134年)2月1日条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神の五所王子と眷属神の四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年(1379年)11月13日の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。建仁元年(1201年)10月19日には後鳥羽上皇那智山に参詣し、その後の建暦2年(1212年)に上皇から寄進され熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。

承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失ったが、代わって修験道の発達に伴い、三山の御師と先達による組織づくりが盛んとなった。それまでにも仁平元年(1151年)2月15日の『源義国寄進状写』に那智御師・高坊の名が記載されている。この他にも御師として熊野別当家の一族や、那智最古の家柄という尊勝院などがあり、それぞれ旦那(檀家)が全国に存在した。貞応2年(1223年)11月19日には一山が焼失したが、御師らによって再建された。

南北朝時代には、熊野の勢力を勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目で寄進が行なわれ、貞和2年(1346年)8月18日には熊野三山検校・道昭准后が、那智山兵部卿律師御房に駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。

続く室町時代には各地の神領荘園からの収入が減少し、那智山権現でも年貢米が駿河国の長田・安東両荘および美作国勝田荘からのみになった。このため、有力御師・先達の活動が重要さを増し、社頭の修理なども熊野山伏や比丘尼、十穀聖などの勧進に頼るようになった。文明10年(1478年)に畿内への課役による棟別銭で那智山の造営を行なったが、弘治年間の十二所権現造営の際は、賦算札に貴庶を勧進結縁させている。15世紀後半以降には、山内の堂塔や社殿の修理のために勧進を行う本願所として、妙法山阿弥陀寺や浜ノ宮の補陀洛山寺をはじめ御前庵主、大禅院、滝庵主、那智阿弥、理性院といった本願所により造営・修造が担われるようになり、那智七本願または那智七穀屋などと称された。なお、穀屋はこの七本願を指すという見方もある。

天正9年(1581年)には大名・堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した社家で御師の廊ノ坊が武力決起し、逆に氏善が廊ノ坊を攻撃した。一方で那智山内の実報(実方)院は堀内氏に付いて那智一山は二分され、廊ノ坊側が敗れると同年6月3日に一族東学坊などの跡職は実報院に与えられたという。
近世以降
慶長6年(1601年)1月4日の『熊野那智山神領注文写』によると神領は633石余となっている。同年には紀州藩浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村(現・那智勝浦町)に300石を与えられた。寛政10年(1798年)大晦日に参拝した高遠藩の砲術家・坂本天山は、建造物が壮麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多い事を『紀南遊嚢』に記している。

近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があり、1873年明治6年)に県社に指定されるとともに那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称、最終的に1963年(昭和38年)に熊野那智大社と改称して今日に至る。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 



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f:id:KOBANNAD:20180705225100j:image御朱印


 

 

 

 あと、今回は熊野三山巡りをするので

 

 


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熊野牛王符(くまのごおうふ、熊野牛玉符)は熊野三山で配布される特殊な神札。
概要
「熊野牛王神符」、「烏牛王」、「おからすさん」などと呼ばれる。一般的な神札と違って一枚ものの和紙の上に墨と木版で手刷りされ、朱印を押したもので、意匠には多くの烏が用いられる(烏文字)。種類は、大きく分けて「那智瀧宝印」「熊野山宝印(本宮)」「熊野山宝印(新宮)」の3種類だが、熊野三山の各大社ごとに意匠は異なる。烏文字は烏の配列で文字を表すもので、本宮と新宮では「熊野山宝印」、那智では「那智瀧宝印」と記されるが極めて読みにくい。3種類以外の「神蔵牛玉宝印」も熊野牛王符で、しかもかなり出回っていた。更に中世から近世にかけて全国各地の熊野神社から発行されていたため、単純な分類は不可能と言ってよい。(Wikipediaより)

 

 

 

牛王符も頂いてきました。

 

 

 

 

 

そこから勝浦港の方に向かい。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705225723j:image補陀洛山寺へ

 


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補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。

仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。

江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。

隣接する浜の宮王子社跡には熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)が建つ。
補陀洛渡海
補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊足摺岬室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発している。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705225914j:image納経印

 

 

そしてなんとご住職のご好意で秘仏であるご本尊さまをご開帳頂きました。

 


f:id:KOBANNAD:20180705230032j:image←他所から拾ってきた画像。

 

まぁ流石に撮影はねぇwwwwwww

 

 

しかし素晴らしい千手観音さまでしたよ。

 

 

 

 

勝浦港で朝ごはんを食べて。

 

 

 

 

新宮に向かいます。

 

 

 

 

 


熊野速玉神社さま

 

 

 


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こちらでも牛王符を。

そして、

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180705230511j:image御朱印

 

 

 

 

そこから熊野の山道をひた走る。

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705230806j:image熊野本宮大社到着!

 


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f:id:KOBANNAD:20180705230908j:image←前日にアルゼンチンが負けてたのでイラっとしてたのはナイショ(*´ω`*)


 

こちらでも忘れず牛王符と。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705231216j:image
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実際、納経印と御朱印と牛王符でこの日6000円くらい使ったアタシwwwwwww


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そっから山越えて

 

 


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湯の峰温泉ー!

 

 

温泉の前に

東光寺さまにお参りを。


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東光寺(とうこうじ)は和歌山県田辺市湯の峰温泉にある天台宗の寺院。山号は薬王山。

伝承によれば、湯の峰温泉の源泉の周囲に湯の花が自然に積って薬師如来の形となったものを裸形上人が見出し、本尊(湯峯薬師)として創建したという。古くは本尊の胸から温泉が噴出していたため、湯の胸温泉と呼ばれていたものが転訛して現在の湯の峰温泉の名になったとされている。
歴史
寺伝によれば、天仁元年(1108年)、鳥羽天皇の勅願により与えられた寺領に二重塔(多宝塔)を建立したのが開創であるとし、熊野信仰の隆盛とともに諸堂塔や仏像が造立されたという。また、『西国三十三所名所図会』が伝えるところによれば、後鳥羽院の時代に役行者の開創とも伝えるが、明確な開創年代は未詳である。

院政期の熊野参詣記を見ると、藤原宗忠の『中右記』天仁2年(1109年)11月1日条に湯の峰温泉で「湯屋浴之」との記述があり、万病を除く名湯と賞賛されているが、湯屋以外に関する記述は見られない。大治3年(1128年)に調整され、天文4年(1535年)書写された熊野本宮大社伝の古文書には、平安時代後期に薬師如来を本尊とする堂塔が存在したことを推測させる記述があり、仁和寺蔵の『熊野縁起』(正中3年〈1326年〉)には境内に湯ノ峯王子が祀られたとあるほか、鎌倉時代の熊野曼荼羅図には、湯峯金剛童子が薬師堂に隣接して描かれている。こうしたことから、湯の峰温泉での湯垢離による潔斎が重視されるにつれ、王子の別当寺として機能するようになっていったものと見られている。永徳2年(1382年)5月26日の『総検校頼舜等衆議下知状』(『紀伊風土記』所収)には湯峯観音堂の灯明料に関する記述があり、境内の観音堂への言及が見られる。中世には温泉とともに時宗の念仏聖が管理していたと見られ、時宗勧進唱導の説経節として知られる『小栗判官』には、照手姫がハンセン氏病に苦しむ小栗を湯の峰温泉に運んで病を癒したとあり、それにちなむ車塚がある。また、寺地の北の県道沿いには一遍上人爪書名号と伝えられる磨崖名号碑(正平20年銘)があり、念仏聖の事跡として知られる。

天正18年(1590年)には豊臣秀吉の造修があり、片桐且元を奉行として薬師堂・多宝塔が修繕された。江戸時代には真言宗古義派に属する無本寺として、本宮社家の支配下におかれ(『紀伊風土記』)、元和年間には、新宮水野氏領のうち、5石が寺領とされていた。この時期の境内の様子がいくつかの古文書に伝えられており、『本社及摂末社其外諸建物目録』(寛永10年〈1632年〉)には、3間四方の薬師堂以下、王子、湯屋、瑞籬、多宝塔、6間5間の東光寺、門といった建物が記され、熊野那智大社所蔵の『熊野三山図』および『熊野三山絵図添目録扣』には同様の建物が記され、薬師堂、王寺社、多宝塔、上湯屋について造替対象であると記されている。鎌倉時代末以降に定着した、湯の峰温泉において湯垢離による潔斎の後、本宮大社に参詣するという儀礼は、近世においても続き、諸士や本宮社家の使う湯槽とは別に一般参詣者向けの湯槽が設けられ、にぎわいを見せた様子が『紀伊国名所図会』熊野篇に描かれている。

明治以降、廃仏毀釈こそ免れたものの、寺領を失い、当時の住職が還俗して本宮の神官となったことで無住無檀となり、明治5年(1872年)に廃寺となったが、1879年(明治12年)、村民の願出により那智山青岸渡寺末の天台宗寺院として再興された。1903年明治36年)5月に、湯の峰温泉一帯が火災に見舞われた際に寺堂も焼失したものの、本尊は焼失をまぬがれ、その他の仏像・宝物等も避難に成功したため、信徒有志の寄附により1931年(昭和6年)に薬師堂が本堂として再建された。(Wikipediaより)

 

 

 

こちらでも本堂奥まで入らせて頂いてお参りさせて頂きました。

ありがたい話ばかりです。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705231919j:image納経印

 

 

 

 

体力に限界近かったゲンさんが無理やり高速で帰ろうとして少し渋滞してイライラしてたのはまあいつものご愛敬ということでw

 

 

 

 

 

 

 

 

そして今朝7/5の話。

 

 

 

京橋に6:30にカーチャンとゲンさんと待ち合わせまして。

 

 

雨の中京都の東寺さまへ。

 

 

 

四国別格霊場50周年を記念してお砂踏み出開帳が行われるので行って参りました。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705232507j:image一時間前に着いたのにもう並んでるwwwwwww

 

 

 

実はこの出開帳でしか貰えない

別格霊場納経帳

      か

別格数珠玉の親玉

が無料配布されるのですよ、先着2000名さまに。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705232838j:image雨の中お坊さん達も大変ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後開門。

 

東寺さまの食堂(じきどう)でお砂踏みを終え、お坊さまにお加持を頂きまして。

 

 

 

 



f:id:KOBANNAD:20180705233018j:image親玉ゲットだぜー!

 


f:id:KOBANNAD:20180705233036j:image別格霊場50周年のピンバッチ

 

 

 

 

 

 

そして

 

 


f:id:KOBANNAD:20180705233114j:image東寺さまの輪袈裟もゲットだぜー!

 

四国はこれで行こうと思います。

 

 

 

 

この週末は四国に伺います!