2018年5月新西国巡礼 その3

 

 

暑くなったり、夜は急に冷え込んだり。

 

体温調整が難しくさすがのゲンさんもまた胃腸を壊して2日も仕事を休んでしまった今日この頃、皆さま如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

「腹壊しましたぁぁぁぁぁぁぁ~」

とか情けない声を上げやがるので。

 

 

 

 

 

 

 

【腐れテッチャン野郎】

とゲンさんに新しいアダ名をつけようとしたら逆ギレされてしまいました、私KOBANNADです(^q^)

 

「腸が一時的に壊れたのは認めるけど、腐ってません!そもそもテッチャンってなんすか!部位で言うな、部位でw」

 

 

 

 

黙れ【腐れ丸腸野郎】wwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

アホな話はさておきまして

 

 

 

さて、今回も新西国のお話です。

 

 

 

 

 

 

まずは5/23水曜日。

 

昼過ぎから夜中まで雨の予報だったので、

まあ大丈夫やろなぁみたいな感じでまたも仕事前に一路奈良に向かいました。

 

 

 

京橋→鶴橋→八木→橿原神宮前とJRと近鉄

 

 

そこからは奈良交通のバスを利用いたしまして。

 

 

 

 

 

 

 

飛鳥大仏で有名ですね。


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新西国霊場第9番札所【飛鳥寺】さま。

 


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飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派

飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。

本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼称する。なお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」である。
歴史
 
創建
飛鳥寺法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。発願から創建に至る経緯は『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。福山敏男は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。

日本書紀』によると、法興寺飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。

一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の推古天皇聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。

『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。

『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない。

『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。これとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。この弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている。

飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、昭和31〜32年(1956〜1957年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。

 

 


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飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。1940年に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。像高は275.2センチメートル。

日本書紀』『元興寺縁起』に見える、鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、後述のとおり損傷が激しく、後世の補修を受けている。現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては、後述のように諸説ある。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年作)の作者であり、同三尊像の光背銘には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されている。

飛鳥寺本尊像の完成は、『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年であるが、本項の「歴史」の節で述べたように後者の609年完成説が定説となっている。『元興寺縁起』には脇侍像の存在を明記しており、本尊像の下方にある石造台座に両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。1933年に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2〜第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。

1973年には奈良国立文化財研究所による調査が行われたが、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されている。顔貌表現のうち、眼の輪郭線や眉から鼻梁に至る線には明らかに当初のタガネ仕上げが残っており、鍍金もわずかに残っている。頭部の下半分は造像当初から溶銅の回りきらなかった部分に象嵌や補鋳を行っていた可能性がある。本像を調査した久野健は、左の掌の一部は当初のものであるとし、左足裏と左足指の一部は焼け跡がみられることから当初のものではないかとしている。

当初部分とみられる頭部について見ると、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。右手の指の表現を見ると、本像では指の関節部分を1本の刻線で表しているのに対し、法隆寺金堂釈迦如来像は同じ箇所を2本の刻線で表していることが注意される。体部のほとんどが後補であるが、その服制には古様が感じられ、焼失前の形態を踏襲している可能性がある。田邊三郎助によると、本像の大衣が左肩〜背〜右肩と回った後、体の前面を覆って再び左肩にかかる形は北魏の古像にみられ、胸の部分に内衣の襟をV字状に表す点は百済の像に例があり、その下に見える蝶結びのような紐の結び目も法隆寺の戊子年(628年)釈迦及び脇侍像などにみられる古い形式であるという。

2012年7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが行った調査結果が同年10月に公表されたが、これによると現存像の大部分が造立当初のものである可能性が高いという。大橋らは、造立当初とされる部分と補修とされる部分に蛍光X線による分析を行ったが、その結果、両者の元素組成には顕著な差異は見られなかった。また、上記分析により金(Au)が検出された伝・光背断片をX線回折分析したところ、同断片が火災に遭ったことと鍍金されていたことが推測された。また鋳造専門家の調査でも銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法としている。

本像は創建当初に据えられた石造台座の上に安置されている。発掘調査の結果、この石造台座は創建時から動いていないことが明らかになった。石造の台座に銅造の仏像を安置するのは不自然だとして、久野健らは当初の中金堂本尊は蘇我馬子所持の石仏の弥勒像であり、それが後に本像と入れ替わったものだと想定した。1981年の再調査で、この台座は花崗岩ではなく、竜山石(凝灰岩)製であることが分かった。また、その上の須弥座は後補と思われていたが、内部に当初の竜山石(凝灰岩)製の須弥座の一部が残存していることが分かった。このことから、石造の台座は当初から銅造釈迦如来像を安置するために造られたものであり、飛鳥大仏は飛鳥時代から同じ場所に安置されていることがあらためて確認された。銅造の仏像を石造の台座上に安置したのは、銅造の重量を支えるだけの台座を銅で造る技術が当時なかったためではないかと言われている。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

長いなw

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525174501j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、更に田舎のバス………じゃなかった、奈良交通

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525174442j:imageやはり聖徳太子さまゆかりの飛鳥の地。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525174633j:image新西国霊場第10番札所【橘寺】さま。

 

 


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ご覧の通り雨がwwwwwww

 

 

 

 

こちらの如意輪観音さまは息を飲む美しさでした。

太子さまにもお参りをさせて頂きました。

 

 

 

 

 

橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。

考古学的には、当寺出土の古瓦のうち、創建瓦とみられる複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀第I四半期に位置付けられ、当寺の創建はこの頃とみられる。ただし、この時期の瓦の出土は少なく、本格的な造営が行われたのは7世紀半ば以降とみられる。橘寺の北側には官寺の川原寺が位置するが、橘寺出土瓦に川原寺創建瓦との同笵品がみられること、川原寺の伽藍中軸線が橘寺北門の中軸線と一致することなどから、僧寺(男僧の寺)である川原寺に対する尼寺として橘寺が建立されたとする説もある(前述の『書紀』の「尼房」という記載から、当時の橘寺は尼寺であったことがわかる)。

発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。

皇族・貴族の庇護を受けて栄えた橘寺であったが、平安時代後期の久安4年(1148年)に五重塔が雷で焼失する。しかし、文治年間(1185年-1189年)には三重塔として再建される。

室町時代後期の永正3年(1506年)、室町幕府管領細川政元の家臣赤沢朝経による多武峰妙楽寺攻めの際に橘寺の僧が赤沢軍に与したため、多武峰の衆徒によって全山焼き討ちされ、以降衰退していった。

それでも聖徳太子ゆかりの寺としての寺基は保ち続け、元治元年(1864年)には本堂として太子堂が再建された。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180525175006j:image聖徳太子さま納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

で、先ほどのWikipediaの解説にもありましたが橘寺のま向かいに

 

 

 


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川原寺跡として広い敷地があり、その真ん中に川原寺さまが現存しています。

 

 

結構な雨だったのですが、川原寺さまに向かう途中、雨は小降りになってきてまして。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525175608j:imageそうか、そういう事か!

お大師さま、ありがとうございます。

 

 

 

 

 
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本堂にお参りして、大師堂にお参り。

 

無論四国のお作法で。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525175910j:image納経印

 


f:id:KOBANNAD:20180525175952j:imageちなみにこちらの写経場は美しい風景を目の当たりにしながら写経が出来ます。

 

ご住職の法話とお抹茶までセットになったプランもあるそうです。

 

カーチャンとゲンさん連れてこよ。

 

 

 

 

 

お参りを終えたら洒落にならんくらい本降りwwwwwww

 

西国の岡寺に寄ろうかとも思ったんですが、今回は断念。

タクシー呼んで岡寺駅阿部野橋→東梅田でそのまま仕事に。

 

 

 

 

で、

 

 

その日仕事終わって職場近くのサウナで仮眠。

 

 

 

自宅にも帰らず翌日5/24木曜日。

 

 

 

 

 

 

 

大阪駅からJRで滋賀の石山駅へ。

 

 

そこからはバス。京阪バス(^q^)

 

 

 

 

 

そう。

新西国霊場最大の難所

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525180818j:image800段以上の階段が待つ。

 


f:id:KOBANNAD:20180525180853j:image新西国霊場第20番札所【立木山寺】

 

 

まぁ、寝不足で来る場所じゃないわな。

まして仕事前にwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525181008j:imageお前何言うとんねん、来た限りは気合い入れんかい!

 

 

 

 

そうです、いきなり修行大師さまがお出迎えして下さって気合いを入れて頂けました。

 

 

 

道中、お地蔵さまも2体お迎え下さいます。

 

 

 

 

 

 

前日の雨で石段はすべりやすいので一歩一歩踏みしめて歩く分余計に足はパンパンになります。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525181402j:imageえっちらおっちら
f:id:KOBANNAD:20180525181415j:imageえっちらおっちらと登って

 

 

 

 

参道入り口から約19分


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本堂前の最後の階段に到着。

 

 

 

 

だいたい歩き慣れた人で20分

お年寄りとかは45分くらいかかるそうです。

 

 


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朝イチでした。

しんどかったけど、気持ち良かった!

 

 

 

 

 

立木山寺(たちきさんじ)は滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の20番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。

歴史
寺伝によれば、815年(弘仁6年)、空海弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れないでいるところに白鹿が現れ、大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたという。この時、空海が厄年の42歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな観音像として信仰されることとなった。

当寺は現在浄土宗に属するが、空海開基の伝承をもつことから、創建当初は真言密教系の寺院であったと推定される。
瀬田川河畔から約800段もの急な石段が本堂まで続く。石段を上りきると山腹にひらけた境内には本尊である立木観音像を安置する本堂があり、本堂裏にも礼拝所が設けられている。本堂からなおも石段を登ると小さな鐘楼があり、参拝者はここで鐘をひとつきして厄を落とす。さらに上へ登ると奥の院があり、ここには道了権現大菩薩が祀られている。毎月17日は縁日となっており多くの参拝客でにぎわっている。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525182213j:image納経印

 

 

 

こちらのご住職さまは本当に丁寧にご対応頂いて、私が恐縮してしまいました。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

下りはちょっとのんびり………ゲッ、バスの時間まで14分しかない。

 

その次のバスは……30分後!

 

 

 

…………………

 

 

 

…………………

 

 

 

800余段の階段を10分足らずでかけ降りましたwwwwwww

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525183244j:imageバス亭


f:id:KOBANNAD:20180525183305j:imageなるほど。

 

 

って言ってる間にバス到着。

 

 

 

 

空いてる座席に座ったら………………

 

膝笑ってまんがなwwwwwww

大爆笑でんがなwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

………気がつけは終点石山駅(^q^)

 

めっちゃ寝てたw

 

 

膝まだ笑っとるwwwwwww

 

 

 

 

 

しかし、ここは気合いを入れ直して。

 

 

 

 

 

一路京都へ!

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525183647j:image昨日が嘘みたいなエエ天気!

 

うっとおしいくらいの観光客!

 

 

 

 

 

京都も市バスに乗り。

行き先は「千本今出川

 

 

 

目的地はそう。

 

 


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新西国霊場第16番札所【千本釈迦堂 大報恩寺】さま


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大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山(ずいおうざん)。千本釈迦堂と通称される。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として、護持された。

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代勧進状によれば、猫間中納言と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年)。

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている(後述)。倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっている。

大報恩寺には近隣の北野天神(北野天満宮)門前にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。足利義満明徳の乱山名氏清の乱)の戦没者を悼んで、乱の翌年の明徳3年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始。応永8年(1401年)に経王堂を建立した。経王堂は明治初年の神仏分離によって破却されたが、経蔵に伝来した一切経、傅大士(ふだいし)及二童子像、だ太鼓縁などは大報恩寺に保管されている。

経王堂(現在太子堂)の前に山名矩豊が「山名陸奥太守氏清之碑」を建立。

(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525184200j:image圧巻の本堂!


観光客も修学旅行生も全くいなかったのでゆっくりお参り出来ました。

 

大師堂もあったので当然こちらも。

山名氏ゆかりの不動堂にもゆっくりお参り出来ました。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180525184327j:image納経印

 

 

 

 

帰りは「上七軒」バス亭から出町柳へ。

 

相変わらず「出町ふたば」さんは行列でまた小一時間かかりそうやったので断念。

 

 

 

京阪で京橋まで。


f:id:KOBANNAD:20180525184746j:imageやっぱりプレミアムカー

 

 

昨日から置き去りのままのチャリンコに乗って職場にまた向かうKOBANNADでありました。

 

 

 

 

 

 

 

そして、本日5/27(日)

 

 

 

朝からゲンさんの運転でカーチャン迎えに行って向かったのは、

 

 

 

 

カーチャンが昔からお世話になってて

四国も30年以上回ってはる先生の所へ。

 

 

 

 

 

色々為になるお話やら伺って、

神社やお寺のお下がりものを分けて頂いて(なんで先生のお宅にはそういうものが沢山あるんだろう。)

 

 

 

 

 

 

 

先生もご一緒に向かいましたのは。

 

 

新西国霊場第25番札所【太山寺】さま。
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太山寺(たいさんじ)は、兵庫県神戸市西区にある天台宗の仏教寺院。山号を三身山(さんしんざん)と称する。本尊は薬師如来と十一面観音、開基(創立者)は藤原宇合と伝える。

播州太山寺縁起」によれば、元正天皇勅願寺として霊亀2年(716年)に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。開山(初代住職)は藤原鎌足の長男・定恵(「定慧」「貞恵」とも書く)とされている。創建時の建物は弘安8年(1285年)の火災で焼失しており、現存する建物はそれ以降に再建されたものである。

開山とされる定恵は、藤原鎌足の長男で(次男は藤原不比等)、若くして出家し、遣唐使とともに唐に渡った。生涯について謎の多い人物で、没年についても『日本書紀』『藤氏家伝』は天智天皇4年(665年)、『元亨釈書』は和銅7年(714年)とするなど定かでない。太山寺の境内および周辺からは定恵の時代までさかのぼる遺跡、出土品等は確認されておらず、実際の創建は平安時代に降るとみられている。

南北朝時代南朝方勢力として支院41ヶ坊、末寺8ヶ寺・末社6ヶ社に僧兵を有していた往時の繁栄をしのばせる大規模な本堂は国宝で、国の重要文化財は仁王門、阿弥陀如来坐像をはじめ19件を数える。また安土桃山時代枯山水名園、安養院庭園は国の名勝に指定されている。なお現在支院は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の5ヶ坊のみとなっている。

所在地周辺55.9haは「太山寺風致地区」として自然景観が保護されているため境内の内外には原生林が残る深森で、ひょうごの森百選にも選ばれ、春は桜、秋は紅葉の名所として知られている。(Wikipediaより)

 

 


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橋を渡り奥の院にお参り。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180527230217j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

更に、いったんお寺を出て。

 

伊川(太山寺川)の上流へ。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180527224612j:image立ち入り禁止の更に向こうへ。

 

 

 

「自己責任で。」

というのはお寺の方のお話。

 

 

 

山道を更に登った先にある対岸の岩肌に

 

 


f:id:KOBANNAD:20180527224756j:image不動明王さまが彫られています。

 

 

いわゆる磨崖仏といわれるものですね。

 

ありがたや、ありがたや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、太山寺さまのほんの手前に。

 

 

 


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温泉!おんせん!

 

 

 

 

ひとまず遅い昼飯を食べて。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲンさんとアタシ

 

カーチャンと先生

 

 

それぞれ分かれてお風呂へ。

 

 

 

 

↓詳しくは

http://nadeshikonoyu.com/news/

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180527225646j:image関係ないけどアニメ【ゆるキャン△】のなでしこチャンは可愛いよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先生をご自宅までお送りして、

 

カーチャン送って、

 

 

レンタカー返して、

 

 

 

ゲンさんと近くのネパール料理屋さんで

カレーとチーズナンとタンドリーチキンと、シシカバブーなんかを食べて


f:id:KOBANNAD:20180527225606j:image先日までテッチャン腐ってたのにwwwwwww

 

 

 

早めに解散して、現在に至るのでありました。