2018年5月 西国・新西国・法然上人霊場巡礼

 

暑くなったり涼しくなったりコロコロ天気が変わり、

体調の管理が難しい今日この頃皆さま如何お過ごしでしょうか?

 

 

 

 

大阪ミナミにあります道具屋筋に買い物に行ったついでに久しぶりに【肉吸い】で有名な【千とせ】さんで昼飯を食って、観光客の多さにここでも辟易してしまった私KOBANNADでございます。

 

 

 

 

 

 

さて、昨日20日(日)のお話です。

 

 

 

 

今回は遅刻せずにやってきたねずみ男を従えてゲンさんがウチのマンションに私を迎えにきた時。

 

マンションの前にまで響き渡るイビキをこきながら私は寝てたそうですwwwwwww

 

 

 

 

さらに洗濯物を干してから出かけるというムチャをwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

出発前からバタバタ(主に俺のせい)でまず向かいましたのは、

 

 

 

 

 


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西国霊場第26番札所 【一乗寺】さま。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521193201j:image久しぶりのツーショット(^q^)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521193310j:image相変わらず一乗寺さんの多宝塔は美しい。

 

 

 

さて、巡礼2度目のねずみ男を連れて本堂でお勤めをしていたら、

【いかにも】って感じのアラフォーカップルが来ましてね。

 

 

 

 

我々がお経を上げてる横でまぁ賽銭入れて鰐口鳴らすんは構わんのですよ、普通は知らないだろうから。

 

 

 

いきなり。

 

 

 

 

 

 

 

二拍二礼wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

 

般若心経途中で吹き出しかけましたわ(^q^)

 

修行が足りんなwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

 

神社と寺院の区別も作法も分からん癖にスタンプラリーだけはするのよね、こういう連中。

 

 

 

 

とりあえずウチのねずみ男には説明して、

こういう情けない真似だけはしないようにと注意しました。

 

 

 

ってかそんな【日本人として当たり前の事】を、【親に教えて貰ってない】ような人間とは間違っても深く関わりたくないですね。

 

そこの親も当然寺社仏閣に対してそういう感覚なんだろうから絶対ロクな付き合い出来ないもん。

 

 

例えば一緒に飯食いに行って、

箸がまともに持てないとか食事のマナーがなってないなんてヤツってそれだけ親がいい加減な証拠っすからね。

 

 

躾←よく出来た漢字やと思いますよ、いやホンマに。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521194657j:image八角朱印

 

 

 

 

 

 

さて、一行は赤穂に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

新西国霊場第31番札所 花岳寺さま。

 

 

 

 

 

 

花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)

播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。なお、義士宝物館・墓所の拝観料は大人400円、高校生・大学生(学生証提示)200円、子供無料(2009年現在)である。
沿革
江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した。

元禄14年(1701年)、浅野長矩による江戸城松之大廊下での吉良義央に対する刃傷事件が起こり、浅野家は改易となった。翌、元禄15年(1702年)赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起きた。(赤穂事件)

その後、赤穂藩には永井家が入り、宝永3年(1706年)には森家が赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めた。赤穂浪士37回忌にあたる元文4年(1739年)には境内に有志により義士墓が建立された。ここには遺髪が納められているとされる。また、宝暦2年(1752年)は赤穂浪士50回忌にあたり、大石良金(主税)と関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。

明治維新後、赤穂城が解体され塩屋惣門が花岳寺の山門として移築されたとされる。現在山門は、赤穂市文化財に指定されている。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


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赤穂浪士だけやなくて浅野家とか赤穂藩歴代の菩提寺なんですね。

 

新西国のご本尊さまは大石内蔵助が討ち入りの際に胸に抱いていたという5センチほどの千手観音さまでした。

 

なんか涙出そうでしたね。

 

【忠義】

 

 

今の日本人が忘れてしまっている、

日本人の心、精神。

 

 

 

大切だと思うんだけどなぁ。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521202534j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて更に車を走らせます。

 

 

 

新西国霊場第32番札所 【斑鳩寺】さま。

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180521202157j:image圧巻の仁王門


 


f:id:KOBANNAD:20180521202239j:image本堂前で骨董品市やってました。

日本刀やら茶釜やら色々売ってました。

 

って「西国三十三納経軸」ってそんなん売ったらあかんやろwwwwwww

 

 

斑鳩寺(いかるがでら、はんきゅうじ)は、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所第32番札所。

伝承によれば、606年(推古天皇14年)、聖徳太子推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

606年、聖徳太子推古天皇法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。

長らく大寺院であったが、室町時代後期の1541年(天文10年)、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、徐々に復興していったとされる。また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。

聖徳太子の生誕地奈良県明日香村の橘寺と、墓所大阪府太子町の叡福寺を結んだライン延長上に、この兵庫県太子町の斑鳩寺が位置する。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521202436j:imageお堂の一つが法隆寺の夢殿っぽい。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521202600j:image納経印

 

 

 

 

こちらの納経所のお母さん達はとてもフレンドリーでついつい話し込んでしまいましたw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一行は一路加古川に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 新西国霊場第27番札所 【鶴林寺】さま。

 


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f:id:KOBANNAD:20180521202823j:imageこちらも力強い仁王さまが。



f:id:KOBANNAD:20180521203057j:imageここの本堂好き。


 

 


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 鶴林寺(かくりんじ)は兵庫県加古川市にある仏教寺院。山号を刀田山(とたさん)と称する。宗派は天台宗、本尊は薬師如来である。

近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂(国宝)をはじめ、多くの文化財を有し、「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。

境内および塔頭の周囲三方が鶴林寺公園として整備されC11形蒸気機関車なども展示され休日には親子連れの遊び場になっている。
歴史
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために建立した。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。

ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。

鶴林寺には飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。

戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、播磨姫路領主だった黒田職隆黒田孝高親子の説得で信長派となり戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存している。のちに福岡藩の大封を得た黒田家は鶴林寺にて大規模な法要を行い、礼として金銀を寄進した。寺には職隆、孝高と交わした書状が多数残っている。

現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上を有する規模であった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521203532j:image納経印


f:id:KOBANNAD:20180521203544j:image今は弁天さまの限定ご朱印頂けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして同じく加古川(実際は高砂)にあります、

 

 

 


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法然上人霊場第3番札所 【十輪寺】さま。

 

 

 

 

 

十輪寺(じゅうりんじ)は、兵庫県高砂市にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。山号は宝瓶山。本尊は阿弥陀如来法然上人二十五霊跡第三番。御詠歌 生まれてはまづおもい出ん古里に ちぎりし友の深き誠を。

寺伝によれば、この寺はもともと唐より帰朝した空海によって、815年(弘仁6年)「地蔵十輪経」に基づき、勅を奉じて、鎮護国家の祈祷書として、地蔵山十輪寺と号した真言宗の寺院であったが、1207年(建永2年)法然が地元の漁師に説法したことから、法然の弟子の信寂房が、法然を中興開山に迎えて、再興して西山派の流れをくむ浄土宗の寺院になったという。大永7年(1527年)大坂境の僧十万が讃岐の生福寺に詣で、法然自画自賛の「宝瓶の御影」を得て当寺に寄贈、以来宝瓶山と山号を改める。江戸時代初期には京都所司代を務めた板倉勝重の帰依を得、寺領を寄進されている。墓地には漁師の八田治部太夫夫婦の墓石が残る。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521204216j:image納経印

 

 

 

伺った折、檀家さんらしき方々が納骨の申し込みをしに来ておられてまして。

 

 

ご住職が対応されていたのですが、

 

 

「お兄ちゃんら巡礼か?珍しい。お寺の子なんか?」

 

違うと答えたら。

 

「ホナなんや、浄土宗なん?」

 

ゲンさんを指差してコイツの家浄土宗ですって答えました。

 

「ふぅん、若いのに感心やわ。ようお参りでしたな。」

 

 

 

ありがたい話です。

 

 

 

 

 

 

 

さて、そこからは再び山手へ。

 

 

 

 

 

 

 

新西国霊場客番(番外)  【浄土寺】さま。
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素晴らしいお寺ですよ。

特に阿弥陀さまは圧巻でした。

 

 

 

 

浄土寺(じょうどじ)は、兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。

浄土寺の建つ地には、奈良時代の僧・行基の建立した前身寺院があったとも言われるが、実質的な開山は平安時代末~鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀(三重県)、周防(山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった。

境内には池を中心にして、西に重源当時の建築である浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の薬師堂(本堂)が建つ。この配置は偶然ではなく、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している。
浄土堂
浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」とも言う)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。

堂は方三間〈正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。(Wikipediaより)

 

 

 

 

ちなみに納経印は拝観料払って阿弥陀さまのおられる浄土堂に入らないと貰えないですよ。

 

ぶっちゃけ、お金払う値打ちはあります。

 

阿弥陀さまマジ圧巻です。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521205550j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180521212849j:image田園風景とゲンさん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に一行は山道を(ゲンさんの得意な)ゆく。

 

 

 

 

 

 

新西国霊場第26番札所【伽耶院(がやいん)】さま。


f:id:KOBANNAD:20180521212809j:imageいちばんガヤガヤしとるヤツが伽耶院(がやいん)wwwwwww

 

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180521214912j:imageなにわろとんねんwwwwwww


 


f:id:KOBANNAD:20180521214935j:image草むしりwwwwwww

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521214955j:image本堂内にツバメの巣がありました。

 

お経のリズムと同じリズムでウンコするのは止めて欲しかったw

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521215102j:image納経所も味のある建物でした。

 

 

伽耶院(がやいん)は兵庫県三木市にある天台系修験道の寺院。山号は大谷山(おおたにさん)。宗派は本山修験宗。本尊は毘沙門天。山伏の寺として知られる。

寺伝では孝徳天皇勅願寺として、大化元年(645年)に法道仙人が開基したとされる。以来大谿寺(だいけいじ)と称していたが、延宝9年(1681年)に後西上皇の勅により仏陀伽耶に因む寺号、伽耶院と改めた。

法道仙人は天竺(インド)から雲に乗って日本に飛来したとされる伝説的な人物である。現在の兵庫県南部を中心に法道開基伝承をもつ寺院が点在することから、「天竺から飛来」云々はともかく、モデルとなる山岳修行者が存在したことは想定される。法道開基伝承をもつ他の寺院と同様、伽耶院についても草創の正確な時期や経緯については判然としない。

平安時代中期には数十の堂宇と百三十余の坊舎をもち、花山法皇行幸があったと記されるなど隆盛を極めたが、安土桃山時代羽柴秀吉の三木城攻めにおいて、当山に別所長治方の陣が置かれたことによる兵火により、また慶長14年(1609年)には失火により、城塞のような石垣を残して全山を焼失した。現存する堂塔は慶長15年(1610年)以降の諸国大名の寄進によるものである。

中世以降、聖護院末の修験寺院として勢力をもち、江戸時代には天台系山伏を統率する四院家のひとつとして修験界に威をふるった。現在も10月の体育の日には、各地から多数の山伏が参集し、近畿地方では最大の規模を誇る採燈大護摩が行われている。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521215355j:image納経印

達筆!

 

 

 

 

 

 

そして、一行は西宮を目指します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲山大師で有名な、

 

新西国霊場第21番札所 【神呪寺(かんのうじ)】さま。

 

 

 


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神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は武庫山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、地元では「お大師さん」とも呼ばれている。

寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。
歴史
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。

皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。

元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。

天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。

 空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。

鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。

当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。

山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。

神呪寺の住所は、上記の通り甲山町であるが「神呪町」が寺の南東約3km離れた、新幹線と阪急今津線の交差点付近に存在し、この寺が中世に一時的に移転したことを示す地名であるとも言われている。

神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。

5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。

大師堂に祀られている弘法大師像は、大師58歳の姿で、厄除大師として信仰されている。甲山大師と称されている。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521215746j:imageゲンさんの後頭部
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納経所でなぜか根来寺について質問をしていたおばあちゃんがいました。

 

お寺の方もちょっとわかりづらい雰囲気でしたので少しサポートしてあげたら、おばあちゃんにもお寺の方も喜んでくださいました。

 

良かった良かった。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521220037j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

さて、本日の巡礼最終目的地に向かいます。

 

尼崎、通称【アマ】ですな。

 

 

 

西宮~尼崎は距離は大したことないんですが、

なんせ混むんですわ。

 

 

 

 

 

着いたの16時回ってまして、

お寺に入らせてもらえるかどうかも微妙な時間帯。

 

 

 

 

 

 

ゲンさん走る。

 

 

 

 

 

 

 

納経所のお母さんが気持ちよく本堂を開けて下さってお参りをさせて頂けることに。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521220626j:image法然上人霊場第4番札所 【如来院】さま。

 

法然上人霊場はやればわかるんですが、お寺によっては参拝するのに予約が要るお寺があるんです。

 

こちらはなかったけど、お寺によって早く閉めはる場合も中にはあるらしいので。

 

 

 


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珠光山徧照寺如来院(にょらいいん)は、兵庫県尼崎市寺町にある浄土宗の寺院。法然上人二十五霊跡第四番札所。

天平年間(729年-749年)、聖武天皇の勅願により行基が建立した49院中の一院となる。開基当初は摂津国神崎において、天皇の厄除けを祈願するため釈迦の本尊を祀り、徧照寺もしくは神崎釈迦堂と称された。

釈迦堂のあった神崎は昔から、京都と西国地方を結ぶ船舶の拠点として繁栄し、遊女も多かった。建永2年(1207年)3月、法然が讃岐遠流の途中同地に立ち寄り、5人の遊女を帰依させる。その後自らを懺悔し念仏を授かった5人は神崎川へ入水。住民は遺骸を川岸に葬り遊女塚とし、法然は釈迦堂にて念仏回向したとの伝承がある。当寺には現在も法然の遺物や遊女5人の遺髪が残されている。

同年12月、法然は勅免により京都へ戻る途中、遊女たちを弔うため再び神崎を訪れる。住民は徳を得るため引き留めようとしたが、勅命により自らの意のままにならない彼は代わりに弟子の湛空を釈迦堂に留めさせ、法然上人宗祖の念仏道場として信仰盛んとなった。

だが永正14年(1517年)、神崎の洪水で釈迦堂が流されたため、新たに善光寺如来を模した阿弥陀如来を本尊とし、それ以後如来院と称している。

永正17年(1520年)、前年に大物城を築いた城主・細川高国が城内(大物)に当寺を移転させた。永禄12年(1569年)の織田信長による尼崎焼打ちの際も、当寺は長遠寺と共に被災を免れたと言われる。さらに元和4年(1618年)、戸田氏鉄の尼崎城築城に伴い、元和年間(1615年-1624年)に寺町(現在地)へ移転した(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180521221532j:image納経印

 

 

 

 

 

ねずみ男を送って、レンタカーを返して。

 

 

 


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やきにく!

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