神無月の京都

夏アニメも大抵終わり、ボチボチ秋アニメが始まりますね。

 

夜はもう肌寒いくらいですが、日中はまだ若干暑さを感じる今日この頃皆様いかがお過ごしでしょうか、KOBANNADです。

 

 

 

10月ですねぇー、いわゆる神無月。

今月25日はアタシの43回目の誕生日( *・ω・)

ちなみに誕生日プレゼントは365日24時間いつでも何回でも受け付けておりますので、金目のモノを宜しくお願い致します(巡礼ブログ書いてるヤツのセリフじゃねぇな)

 

 

 

 

 

閑話休題

先日1日の日曜日は前日が月末棚卸しだの月締め業務があったりしまして。

帰って風呂に入った時点で夜中3時。

 

 

なのに4時間後の7:30頃には家を出発して、

京橋から京阪乗って一路京都へ。

 

 

まずは

洛陽三十三観音霊場第17番札所

蓮華王院・三十三間堂

 

 



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三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区にある寺院の仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で蓮華王院は千手観音の別称蓮華王に由来する。

 

この地には、もともと後白河上皇離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

上皇平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された(『伽藍』の項参照)。

三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(#構造)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。

江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである(右上浮世絵画像参照)。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。

三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。

なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音をまつる得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。Wikipediaより

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20171003100936j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

そこから少し歩いて

 

真言宗智山派総本山

真言宗十八本山第7番札所    智積院

 

 


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朝から行くと総本山とはいえほとんど人が居なくてここが京都やということさえ忘れるくらい凛とした雰囲気の中、

真言宗ですから本四国の作法に則ってお経を上げさせて頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。

智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。

智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦い徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。

この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。

近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。Wikipediaより

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20171003101648j:image納経印

 

そういえばこちらの納経所の寺男さんには

「朝からようお参りでした、ご苦労様でした、ありがとうございました。」

 

気持ちが良かった。

 

「いえいえ私も良いお参りさせて頂きました、こちらこそありがとうございました。」

 

お礼を述べてお寺を後に。

 

 

 

 

 

 

本日のいちばんの目的。

京都に来た理由。

 

 

実は以前華厳寺~名古屋に行って最後に万松寺で納経印頂いた時に二冊目の納経帳が終わってまして、

 

そこからは四国、西国の巡礼ばっかで三冊目の納経帳を作ってなかったのですよ。

 

 

で、色々とオリジナルご朱印帳を調べてこれにしよう!と思ったのが。

 

 

 

 


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こちら【六道珍皇寺】さま。

 

 

 

 

 

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7日 - 10日の「六道詣り」、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称「六道さん」。この付近が「六道の辻」であるとされる。

 

この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている。

創建は延暦年間(782年〜805年)とされ、開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊とされる。異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(『伊呂波字類抄』『今昔物語集』)などとする説のほか、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。さらに東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年・1002年)には、珍皇寺は承和3年(836年)に山代淡海が創建したとある。

藤原道長の日記『御堂関白記』長保6年3月12日(1004年4月4日)条にある「珎光寺」は珍皇寺を指すとみなされる。近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていたと考えられている。珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は、珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが、大正年間に右京区嵯峨鳥居本に移転した(愛宕念仏寺の項を参照)。

鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し、中世後期の寺史はあきらかではない。貞治3年(1364年)、建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた。明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、明治43年(1910年)に独立した。Wikipediaより

 

 

 

 

 

 

 

こちらの閻魔堂にあります閻魔像が表紙に描かれた


f:id:KOBANNAD:20171003102845j:imageカッコいい!


f:id:KOBANNAD:20171003102909j:image納経印もカッコいい❗

 

 

 

 

ちょっとミーハーなご朱印ガール並みのノリで失礼いたしました(^q^)

 

 

 

 

 

そこから東へ向かい、高台寺の手前にあります

 

洛陽三十三観音霊場第9番札所 青龍寺

 


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青龍寺(せいりゅうじ)は、京都市の東山のふもと、高台寺の山門前、清水寺から八坂神社に通じる観光ルートの一角にある浄土宗の寺で、洛陽三十三所観音霊場第九番である。山号は見性山。本尊は聖観音菩薩。霊山道に面して(法観寺八坂の塔の北側)北向き簡素な寺門。くぐり戸を入ると、左手に西面して本堂がある。

当寺は、桓武天皇の勅命によって長岡京近郊に創建され、平安遷都により現在地に移された。昔から「伽羅(きゃら)観音」の通称で広く信仰を集めてきた本尊の聖観音は、本堂正面に安置されており、身の丈約1メートル、細身の優雅な立ち姿である。寺伝によると、唐の徳宗皇帝から献上された伽羅木を、桓武天皇伝教大師最澄)に命じて彫刻された。

本堂前の小さな庭に、長さ1メートル、幅50センチほどの石が据えられている。法然の門弟・見仏が後白河天皇追善回願のため、法然を招いて六時礼讃を勤めたとき、同じく門弟の住蓮が鉦の代わりに叩いたという念仏石で、隕石との言い伝えもあり、名物となっている。大小二つあって、小さい方は本堂内に保存されており、打つとカーンと金属性の音がする。また、境内墓地には、勤王の志士・近藤正慎(義重)の墓がある。Wikipediaより

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20171003103320j:image納経印

 

 

 

 

 

更に歩いて京阪祇園四条へ向かう道中に

 

 

洛陽三十三観音霊場第16番札所 仲源寺

 

 

 

 

 


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仲源寺(ちゅうげんじ)は、京都市東山区にある浄土宗の寺院。山号は寿福山。本尊は地蔵菩薩で、目疾(めやみ)地蔵とも称されて眼病に霊験があるとして信仰されている。また、観音堂の千手観音は洛陽三十三所観音霊場第十六番札所である。

 言い伝えによれば、この寺は平安時代中期の仏師定朝(?~1057年)が開山となって開かれたとも伝えられ、当初は四条橋の東北にあったとされる。鎌倉時代の1228年(安貞2年)鴨川が大雨で洪水となり、防鴨河使となった中原氏がこの地蔵尊に止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから、朝廷から「仲源寺」の寺号を下賜されたという。1585年(天正13年)現在の寺地へ移された。Wikipediaより

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20171003103653j:image納経印

 

 

 

 

 

 

京阪祇園四条駅から再び京橋に戻るんですが、

最近出来た京阪の特急の有料指定車両

プレミアムカー

とやらに乗ってみました。

 


f:id:KOBANNAD:20171003103836j:imageおぉ!カッコいい❗

 

 


f:id:KOBANNAD:20171003103903j:image中は広い&シートもゆったり

 


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リクライニング&スマホ充電出来るシート。

 

なんならスマホの充電器やブランケットまでレンタルしてくれます。

 

 

これで乗車券+500円(祇園四条~京橋)!

 

もう俺京都行く時ずっとコレにする!

 

 

ウザいのよ、チャンコロ観光客とかマナーの悪い連中とか。

京阪もなかなか客層タチ悪いの多いからねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはさておき

で、大阪帰って来て向かったのは

和宗総本山

新西国霊場第1番札所 

言わずと知れた 四天王寺

 

 


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f:id:KOBANNAD:20171003104540j:image納経印の取り扱い数がパネェw

  

 

 

今回は新西国の納経を頂きました。

 

 


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KOBANNADの納経帳のいちばん初めてのスタートはこちら四天王寺さまですからねぇ。

 

 

 

 

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

 

日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。Wikipediaより 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

で、本日のもうひとつの大きな目的。

四天王寺さまの近くにあります

 

【仙福南陽堂】さんへ。

 

 
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こちらは西国、四国の巡礼用品もさることながら。

納経軸の表装で有名なお店です。

 

 

 

ウチのアルバイト(19歳元引きこもり)が来年から西国霊場巡礼始めるらしいので、

先達としては納経帳の1冊も買ってやろうかな、と。

 

 

何より自分が回ってる四国別格20霊場の数珠玉を表装してくれる店を探してたので。


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今月末で結願なので数珠玉持って来るから宜しくね、と奥様にお願いしてきました(^q^)

 

 

いっぽ一歩堂さま共々今後も色々とお世話になりそうですな。