西国三十三観音霊場&洛陽三十三観音霊場巡り in京都

やっと近頃梅雨らしく雨がよく降るようになってきて、

名古屋の姉上も大活躍なお天気模様ですね。

 

 

 

皆さまいかがお過ごしでしょうか、最近やや調子に乗って3kgほどリバウンド気味のKOBANNADです。

 

 

 

 

 

さて、先日6月22日にまたまた仕事前に京都にお詣りに行かせてもらいました。

 

 

 

向かったのは

西国三十三観音霊場第16番札所

洛陽三十三観音霊場第10~14番札所

清水の舞台で有名な

音羽山 清水寺】です。

 

 
f:id:KOBANNAD:20170628013419j:imageあ、これは違うかw

 

 

 

 

 

 

 

 

納経所が8:00からということで7:40頃には到着してたんですがね。

正直今まで20回くらいは清水寺って行ってます。

 

ブログにも今年正月に大雪の中行ったりしてるの書いてましたしね。

 

 

ただ、こんな朝早く行ったのは初めてでした。

 

正直観光寺のイメージしか無かったんですけどね。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628013654j:imageいつもは二年坂~三寧坂と上がるんですが、今回は清水五条の方から(いわゆる茶わん坂)上がってきました。

 


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人居ないwwwww

 

清水寺じゃねぇよ、これ。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628013919j:imageあちこち改修工事中でした。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628014016j:image本堂も!

 


f:id:KOBANNAD:20170628014046j:image舞台も!

 

 

ほとんど人居なかったので、ゆっくりご本尊と向き合えました。

じっくりお経も上げれました。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628014201j:imageいつも人が並びまくる音羽の滝も人っ子一人も居ない。

 

 

こうしてみると早朝に行くのは非常に良いのでは?

 

 

清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
概要
清水寺法相宗南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺滋賀県大津市)、長谷寺奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶北法相宗を立宗して法相宗から独立した。

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺 で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
平安時代以降
延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。

清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺支配下にあったことから、興福寺延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗僧の勧進聖願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。
三職六坊
豊臣秀吉清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。
近代
近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875年 - 1983年)が清水寺貫主(住職)に就任する。大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は昭和41年(1966年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、昭和49年(1974年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。 現貫主は、森清範が務めている。

2015年には、10年かけて制作された絵巻物「清水寺平成縁起絵巻」が完成し、奉納された。寺の草創期から「平成の大改修」の完了までの1200年を描いた全巻で、全長65m。作画は日本画家で京都嵯峨芸術大学名誉教授の箱崎睦昌。絵絹や裏彩色といった伝統技法を復活させて描かれた。戦火が多く描かれた室町時代の『清水寺縁起絵巻』とは異なり、何度も焼失と再建を繰り返した清水寺を支えた庶民の姿をテーマに描かれた(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628014345j:image舞台を見上げてもなんだかよくわかんないw

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628014430j:image納経所のとなりの売店には清水寺貫主さまがお書きになられた直筆の納経軸が売られてます。

 

2回目は軸をさせて頂くつもりなので、是非こちらで頂こうかと思っております。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20170628014656j:image洛陽10番
f:id:KOBANNAD:20170628014707j:image洛陽11番
f:id:KOBANNAD:20170628014723j:image洛陽12番
f:id:KOBANNAD:20170628014802j:image洛陽13番
f:id:KOBANNAD:20170628014816j:image洛陽14番



納経印300円×6
笈摺200円

西国カラー御影200円

合計2200円

 

あ、入山料400円やから清水寺だけで2600円w

 

 

なかなかw

 

 

 

 

 

 

さて、そこから個人タクシーの運転手さんの「マナーの悪い中国人観光客の愚痴」を聞きながら向かったのは

 

 

西国三十三観音霊場第15番札所

洛陽三十三観音霊場第19番札所

 

【新那智山 今熊野観音寺

 

 

 


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途中に

 


f:id:KOBANNAD:20170628015546j:image御陵印が頂ける【月輪御陵所】があるんですが、今回は寄ってません。

母上と一緒に行く予定ですのでw

 

 


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f:id:KOBANNAD:20170628015733j:imageお大師さまがお出迎え。

ありがたや。ありがたや。

 

 

観音寺(かんのんじ)は、京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称される。山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。西国三十三所第十五番札所、神仏霊場巡拝の道(神仏霊場会)百二十二番(京都四十二番)霊場、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、泉山七福神巡りでは三番としてえびす神を奉祀。大同年間(806年~810年)、空海が庵を結んだのに始まるとされ、藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられる。永暦年間(1331年~1334年)、新熊野神社が建てられるとその本地仏を祀る寺とされた。(Wikipediaより)

 

 

 

 
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f:id:KOBANNAD:20170628020304j:image洛陽

 

 

 

 

さて、そこから徒歩で少し登りまして、たどり着いたのは

 

洛陽三十三観音霊場第18番と20番札所

真言宗十八本山第8番札所

 

【月輪山 御寺 泉涌寺

 


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以前母上と訪れた時は楊貴妃観音さまが京都美術館に行ってらしたので御不在でしたが、

今回はお詣りできました。

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20170628020943j:image真言宗十八本山


f:id:KOBANNAD:20170628021011j:image洛陽18善能寺

 

 

 

泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来阿弥陀如来弥勒如来の三世仏。
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代後堀河天皇四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
仁和寺大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。

別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺泉涌寺山内にあり、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。

鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166-1227)は肥後国熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。

泉涌寺は律を中心として天台、東密真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まった。江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られている。泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。

応仁の乱による焼失を初め、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。大日本帝国憲法施行以来日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していた。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善能寺については

 

善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。洛陽三十三所観音霊場第18番札所である。
この寺は、一説によれば823年(弘仁14年)に空海が八条油小路の地に創建したのに始まるという。1551年(天文20年)に後奈良天皇の命で現在地に移された。

現在の本堂は1971年(昭和46年)のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものである。

 

 

 

 

 

 

 

そのまま下って東福寺駅に向かう前に泉涌寺参道にあります、


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洛陽三十三観音霊場第25番札所

【法音院】

 

 

 

Wikipedia無い(´;ω;`)

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628021742j:image洛陽

 

 

 

 

で、翌日の23日

 

 

またもや朝から向かったのは

 

 

 

西国三十三観音霊場第20番札所

 

【西山 善峯寺】

 

 


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あんまり写真撮らないアタシがこれでもかっていうくらい撮っちゃったwwwww

 

多分今のところ西国でいちばん好きなお寺。

なんかすっごい落ち着くのよ。

 


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f:id:KOBANNAD:20170628022410j:image天然記念物の松


 

 


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f:id:KOBANNAD:20170628022459j:imageアジサイも綺麗やった。


どこぞの笈摺投げてよこしやがるライトアップ(笑)とか言ってる腐れ観光寺のアジサイよりよっぽど美しい。

 

 



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ホンマ趣のある景色も雰囲気も良いお寺でした!

 

善峯寺(よしみねでら)は、京都府京都市西京区大原野にある寺院。山号は西山。西国三十三所第20番札所。善峰観音宗天台宗系単立)。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。


歴史
寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。
境内
境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が建つ。バス停留所から山道を数分登ったところに山門が東向きに建ち、石段を上った正面に観音堂(本堂)が建つ。

山門、観音堂は元禄5年(1692年)、山内最古の建物である多宝塔は元和7年(1621年)の建立。他の諸堂宇も大部分は江戸時代、桂昌院の援助で整備されたものである。

観音堂の左手(南)には寺宝館文殊堂が建つ。観音堂右手の石段を上った一画には鐘楼、護摩堂、経堂、多宝塔(重要文化財)、開山堂、遊龍の松(天然記念物)、桂昌院廟、十三仏堂などがある。そこからさらに上ったところに釈迦堂、阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂(奥の院)、青蓮院宮廟などがある。

青蓮院宮廟 - 境内のもっとも奥に位置し、覚快法親王鳥羽天皇皇子)、道覚法親王後鳥羽天皇皇子)、慈道法親王亀山天皇皇子)、尊円法親王伏見天皇皇子)、尊道法親王後伏見天皇皇子)らの墓がある。墓地は宮内庁が管理している。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628022940j:imageバス亭をひとつ歩いて下る途中に

観音さんがおられました。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170628023240j:image西国納経印

 

 

 

さて、なんだかんだで

 

 

 

 

 

 
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後、6ケ寺!