奈良へ! 西国巡礼とゲンゲンと俺。

 

 

 

ここんとこ毎週どっか寺社仏閣参拝に行ってるので、

たまにはゆっくりしようかなぁとか思ってたんですけど、

 

 

 

朝からゲンゲンと近鉄特急(鶴橋~大和八木)に乗り


f:id:KOBANNAD:20170514231144j:image

(どこでも寝るよなこのおデブはw)

 

 

 

 

八木から普通列車に乗り換えて向かったのは

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514231323j:image

西国三十三観音霊場第8番札所

牡丹で有名な【長谷寺】の駅。

 

 

 

 

 

こっから参道を行く………のをタクシーでショートカットしまして

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514231517j:image
f:id:KOBANNAD:20170514231529j:image

到着!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

せやけどさぁ、いくら檀家の法要あるからって人が経詠んでる最中に目の前に木の看板にさぁ

【法要中につきお静かにお参りください】

って書いたの置くか?

 

般若心経も観音経も上げるなって事か?

 

檀家の法要の方が巡礼で来る連中より金落とすから巡礼の連中は遠慮しろって事か?

 

 

さすがは2chの西国スレでも悪名高い観光寺やわwwwwwwwwww

 

そういえば寺のグッズ(敢えてこう書く)もやたらと【限定】【長谷寺限定】みたいなんばっかやったわ。

 

 

 

 

正直革堂と花山院以外いまのところ西国って観光寺ばっかで疲れる。

 

 

四国の方がはるかに良いなぁ。

 

 

 

 

 

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。

 

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514232749j:image納経印。

 

これで真言宗のひとつの総本山なんだからねぇ。。。

 

あれ?醍醐寺でも俺こんな話をしてたよなぁ。

 

 

 

 

 

 

まぁ気を取り直して。

 

 

長谷寺門前町

西国三十三観音霊場の開祖でもある徳道上人の御廟でもある

 

【西国三十三観音霊場番外札所 法起院

 

がありますのでそちらに向かいます。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514233127j:image
f:id:KOBANNAD:20170514233143j:image

 

番外なのに

「散華ないの?」とか言ってたオバハン。

 

やっぱりお経も上げずに納経所に行くタイプの人でしたわ。

 

個人の自由だからどうでもいいけど、

スタンプラリーと一緒にされたくはないよなぁ。

 

そんなのばっかだと正直納経所や御朱印所並んで大変なんだよなぁ。

 

 

なんて思ってたりもしながら、

 


f:id:KOBANNAD:20170514233519j:image納経印頂きました。

 

 

 

 

法起院(ほうきいん)は奈良県桜井市初瀬に所在する長谷寺の塔頭寺院である。宗派は真言宗豊山派。本尊は徳道上人。西国三十三所番外札所である。

寺伝によれば奈良時代天平7年(735年)に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まるとされる。徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われる。当院の名称はそれに由来する。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔がある。

江戸時代前期の元禄8年(1695年)長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

そこから長谷寺駅まで戻り→近鉄桜井駅下車

 

バスに乗って行ってきました。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514233813j:image

【みわさん】こと、三輪大社

正式名称【大神神社

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514233913j:image
f:id:KOBANNAD:20170514233924j:image

 

山伏の団体とか居た!

めっちゃ人多いwwwwwwwwww

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514234029j:image御朱印~。

 

 

 

 

 

大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。式内社名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれたとされる、日本でも古い神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。

三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した。

摂社の檜原神社倭姫命天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(垂仁記二十五年三月条)。また、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。いわくら(磐座・言わくら)や」の言葉があり、伊勢神宮の元であることが伺える。

全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。

近年、大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。

神大社には平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)という三つの大きな神宮寺があったが、明治時代に行われた廃仏毀釈で三寺全てが廃寺となった。しかし、昭和52年(1977年)に平等寺曹洞宗の寺院として再興された。

例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

お腹すいたお腹すいたとやかましいゲンゲンを尻目にJR三輪駅→JR奈良駅と乗り継いで、

 

更に向かいます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良といえば
f:id:KOBANNAD:20170514234409j:image鹿。

 

 

鹿といえば、そう!

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514234454j:image春日大社

 

 

 

もう修学旅行のガキんちょと中国人観光客(もうマジ死ね)で人多過ぎ。

 

 

 

ぶっちゃけ吐きそうなくらいごった返してたわ。

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514234641j:image

 

 

 

 

 

春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社式内社名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。神紋は「下がり藤」。

全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコ世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。(Wikipediaより)

 

 

 

春日大社を後に、近鉄奈良駅方面へ。

 

 

東大寺の大仏さんは今日は行かずに。

 

 

修学旅行生とチャンコロ観光客を掻き分けながら、向かったのは。

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514235006j:image

興福寺

 

 

 

こちらの


f:id:KOBANNAD:20170514235026j:image南円堂

 

が、

 

 

【西国三十三観音霊場第9番札所】

な訳でございます。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514235125j:image納経印。

 

 

 

 

 

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等厩坂寺平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

ここまで何も食べずに昼の3時前。

 

さすがに無理やわ。って事で近鉄奈良駅前の商店街でラーメン(珍しくゲンゲンのオゴリ、ありがたやありがたや南無八万大菩薩南無八万大菩薩)を食べて。

 

 

 

 

 

実家に帰るゲンゲンはそのまま奈良から三宮行きの快速急行で、

 

 

アタシは途中下車して

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170514235557j:image


f:id:KOBANNAD:20170514235608j:image

 

 

真言宗十八本山 真言律宗総本山西大寺

 

行ってまいりました。

 

 

 

 

 

ここもいちいちお堂ひとつ入るのに300円だの参拝料金取るんやねぇ。

 

京都も奈良も昔からそうやけど観光寺ばっか。

 

 

で、大師堂はお金取らない代わりに朱印もないから誰も来ないような所に寂しくある。

 

 

うーん、これで真言宗のひとつの総本山なんやなぁ。

 

ものすごく四国と温度差あるよな。

 

同じ真言律宗大本山の生駒宝山寺とはまた全然違う感じ。

 

 

正直観光客もあまり来てない感じ。

 

 

 

色々ありますなぁ。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20170515000240j:image

上 本堂 釈迦如来

下 愛染堂 愛染明王

 

 

 

 

 

西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代孝謙上皇重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代叡尊によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。

宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている。

西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている。護国のために四天王像を安置するのは『金光明最勝王経』に基づくものである。

西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められたという。

『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には、密教系の像を含む、多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。

しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。
叡尊による復興
西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201〜1290)である。叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された『西大寺末寺帳』には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺真言宗各派に属している)。(Wikipediaより)

 

 

 

帰りは

 

西大寺→鶴橋→京橋

で帰って来ました。

 

 

お疲れ様でした。

 

 

 

 

 

奈良京都

行けば行くほど

観光寺

 

 

       こばなど


f:id:KOBANNAD:20170515000704j:image