2018年 8月巡礼記 その4 法然上人霊場巡り part2

皆様お疲れ様です。

 

 

今日のお話をブログに書きますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

実は今、もう足がパンパンなんです。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826215636j:image山を歩くには金剛杖は欠かせない遍路の習性

 

 

 

 

 

 

今朝6時にいつもの如くデブ巡礼者二人が、京橋を出発しまして。

 

 

 

京都の嵐山の奥、愛宕山を目指しました。。

 

 

 

 

 

 

清滝のバス停を過ぎ、アスファルトのある本当に細い車1台しか通れない登山道をいける所まで車でひた走ります。

 

四国で山道に慣れたハズのゲンさんがかなりキツかったという細い細い道でした。

 

 

 

 

やがて、
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本日いちばん初めの目的地

法然上人二十五霊場第18番札所 月ノ輪寺さまへ向かう登山口の前に到着します。

 


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正直、西国4番施福寺

新西国20番立木山寺が可愛く思えるくらいの山道でした。

 

 


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途中トイレも自動販売機もないので、トイレも済ませお茶も買ってタオルも持参する必要がありますよ。

 

登山道は荒れており、はっきり言って、しんどい!


九十九折れの階段が続き、25分ほど歩きました。
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途中の中間地点にはお地蔵さまがお出迎え。

 

 

 

 

 

何回か少しずつ休憩を取りながら

 

 


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法然上人二十五霊場第18番札所 月ノ輪寺さまへ到着。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826212556j:image眺めは最高でっせ!

 

 

 

 

 

 

 

月輪寺(つきのわでら、がつりんじ)は、京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗の寺院。山号は鎌倉山かまくらやま、けんそうざん)。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は泰澄と伝える。

京都盆地の西にそびえる愛宕山(924m)の東方の深い山中に位置する山岳寺院である。かつては愛宕大権現白雲寺であった愛宕神社愛宕山山頂に位置する)との関係が深く、また空也法然九条兼実などのゆかりの寺として知られる。境内には親鸞の手植えと伝える時雨桜があり、シャクナゲの名所としても知られる。法然上人二十五霊跡第18番。


歴史
月輪寺は、京都盆地の西にそびえる愛宕山の東側の深い山中に位置する。京都市右京区に属するとはいえ、周囲にはこの寺以外に人家はなく、麓の清滝からは山道を徒歩で1時間30分ほどかけて登らねばならない。

月輪寺の創建について説明するためには、関係の深い愛宕神社愛宕権現)の歴史に触れねばならない。愛宕神社は、一般には火伏せの神として知られる神社で、近世以前には愛宕権現または白雲寺と呼ばれて神仏習合の信仰が行われ、修験道の道場であった。『山城名勝志』に引用される『白雲寺縁起』は愛宕権現の由来について次のように述べている。

文武天皇の大宝年間(701 - 704年)、役小角役行者)と雲遍上人という2人の人物が愛宕山麓の清滝に来ると、雷が鳴り、激しい雨が車軸のように降って、先へ進めなくなった。2人が祈祷を行うと、天は晴れ、大杉の上に天竺(インド)の日良、唐(中国)の善界、日本の太郎房という天狗の統領たちがそれぞれの眷属数万を率いて出現した。天狗たちは、「我々は2千年も昔に仏の命を受けてこの地を領し、人々を利益する者だ」と告げると、姿を消してしまった。雲遍はその大杉を「清滝四所明神」と称し、朝廷の命によって朝日峰(今の愛宕神社の地)に神廟を営んだ。これが愛宕権現の始まりであるという。

役小角修験道の開祖とされる人物であり、雲遍は後に泰澄上人と称され、加賀の霊場白山を開いたとされる人物で、両名ともに伝説的色彩の濃い人物である。

縁起によれば、その後、光仁天皇の勅により、天応元年(781年)、慶俊僧都和気清麻呂と協力して愛宕山を中興し、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を置いた。それらは、朝日峰の白雲寺、大鷲峰の月輪寺、高雄山の神願寺(神護寺)、龍上山(たつかみやま)の日輪寺、それに鎌倉山(賀魔蔵山とも)の伝法寺であったという。以上のことから、月輪寺では泰澄を開基、慶俊を中興としている。

平安時代には空也(903年 - 972年)が来山し、九条兼実(1149年 - 1207年)も当寺に隠棲したという。日本浄土宗の祖である法然(1133年 - 1212年)と親鸞(1173年 - 1263年)は、流罪(いわゆる承元の法難)になる前の承元元年(1207年)、月輪寺に兼実を訪ねて別離を惜しんだと伝えられる。

法然親鸞、兼実の3名は、別離に際してそれぞれが自身の像を刻んだと言い、各人の自刻像と称するものが「三祖像」として寺に伝わっている。ただし、法然像と親鸞像は江戸時代のものであり、伝・九条兼実像は像の制作自体は平安時代後期にさかのぼるものの、元来は僧形文殊菩薩像として造像されたものと思われる。

以上のように、月輪寺の草創縁起には伝説的要素が多く、中世以前の歴史については不明な点が多い。ただし、当寺には平安時代にさかのぼる仏像群が伝わり、もっとも古様な作風を示す十一面観音立像は10世紀にさかのぼる作と見られることから、空也が来山したと伝える10世紀頃には寺観が整っていたと見られる。

2012年7月の集中豪雨で境内に土砂崩れが発生し、権現堂などの建物にも被害があった。重要文化財の仏像を安置する宝物殿は無事であった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826210516j:image親鸞上人像
f:id:KOBANNAD:20180826210530j:image本堂

 

 

奥から尼僧のご住職様が出てこられました。

 

 

先代の住職様(現住職のお母様)が来るまでは、
人も住まない荒れ果てたお寺だったのを、
私財をなげうち、再興し、宝物館を建て、
他所に預けてあった仏像も迎え入れたそうです

 

大変なご苦労話を伺いました。

 

山火事の恐れがあるので、お風呂も夏場はなんとか水風呂で凌ぐが、

冬は身体を拭くだけ、乾布摩擦状態だとか、

 

生活物資は、週に一度、30kg 歩荷で担ぎ上げているとか

 

荷物自体も嵐山までわざわざ取りに行くとか

 

今は副住職様と二人で、
冬は零下17℃になり、多いときは2メートル近く雪の積もるこの地に住まわれて、檀家のない寺を守っておられるそうな

 

 

法然上人霊場でありながら天台宗のこのお寺に対して

 

天台宗総本山比叡山にいくら陳情してもほとんど何も援助もなく

 

 

京都府も国も何の保護や援助もなく

 

 

賽銭等の収入があるからとこのような過酷な生活を強いられるのに生活保護も受けれないとの話

 

 

 

 

 

 

 

 

巡礼者から高い入山料取って笈摺投げて寄越すようなどっかの腐った観光寺をはじめ、

『坊主丸儲け』

を地でいくような観光寺にもっと税金かけて、

 

訳のわからん在日とか外国人なんかに無意味な生活保護をやる必要もないから

ホンマに困ってるこういう方々の為に税金って使うべきもんやろ。

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826212333j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

下りの山道は30分ほどで下りました。

 


f:id:KOBANNAD:20180826212515j:imageお約束(笑)

 

 

 

 

 

あまりに汗をかいたので、川で手拭いを濡らして身体を拭く。

気持ちいいー(*´ω`*)

 

 

 

 

 

 

 

そこから道なき道をまた車で下り。

 

 

 

 

街中へ戻って

 

 


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法然上人二十五霊場第17番札所 二尊院さま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野の二尊院門前にある天台宗の寺院。山号は小倉山。正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は紅葉の名所として知られる。また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。
歴史
平安時代初期の承和年間(834–847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった湛空らにより再興される。

嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際には、法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送された。

室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建されている。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826213128j:image納経印

 

 

 

 

 

 

更に車で約3分ほどで

 

 

 

 


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法然上人二十五霊場第19番札所 法然寺さま

 

 

 

 

 

 

 

法然寺(ほうねんじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町にある、浄土宗の寺院である。 法然上人二十五霊跡第19番(熊谷入道護持の御影)。

歴史
蓮生(熊谷直実)が関東に帰る時、法然の姿を拝したいと御影を懇願した。法然は自作の木像を与えた。蓮生は故郷の熊谷(くまがい)に帰り、熊谷寺(ゆうこくじ)を建立した。その後蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、錦小路東洞院西の父貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

正安年間(1299年 - 1302年)に後伏見天皇が病気のとき、夢枕に法然が立ち、念仏をすれば病は平癒すると言ったので、そのとおりにすると、病気は治った。帝は当寺の法然像を見つけ、御所に召された。その時「極楽殿」の勅額を賜った。正親町天皇からは「熊谷山」の勅額も賜っている。その後天正19年(1591年)豊臣秀吉により、寺町仏光寺に移転。昭和36年(1961年)に現在地に移転した。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826213423j:image納経印

 

 

 

 

 

さて、本来ならばここで満願の予定やったんですが。

 

 

2番 高松の法然寺さま←西日本豪雨で行けなかった

8番 和歌山の報恩講寺さま←お盆前に行く予定だったがお寺の都合で行けなかった

 

 

 

ってことで後2ケ寺残っております。

 

 

 

 

 

実は8番和歌山の報恩講寺さまは、昨日電話で拝観予約をしておいたのです。

 

 

 

 

 

ってことでデブ二人は


f:id:KOBANNAD:20180826213831j:image京都のステーキのどんで600グラムのハンバーグとライスとパンとスープとドリンクバーをひたすら食べまくり、

 

 

 

 

 

一路和歌山(ほぼ大阪の岬町)へ

 

 

 

 

 

 

お約束の如くお腹いっぱいになったらゲンさんが運転してるにも関わらず助手席で爆睡かましちゃうアタシwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんやかんやと、言うてる間に


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本日の打ち納め。

 

 

 

法然上人二十五霊場第8番札所 報恩講寺さま。

 

 

 

88歳のおばあちゃん(自称)がお出迎え頂きました。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180826214358j:imageおばあちゃんの力強い文字にひたすらありがたみを感じます。

 


f:id:KOBANNAD:20180826214440j:imageそして法然上人霊場唯一の御影を頂きました。

 

 

 

 

報恩講寺(ほうおんこうじ)は、和歌山県和歌山市大川にある西山浄土宗の寺院である。大川寺と通称する。法然上人二十五霊場第8番。

歴史
承元元年(1207年)12月、赦免になった法然は、翌承元2年(1208年)帰路につき、土佐から船に乗った。風雨が激しくなり、10月21日油生浜に漂着した。その時磯が瑠璃色に変じたという。それ以来この磯を「るりが浜」と呼ぶようになった。

法然は村の長者阿闍梨孫右衛門に迎えられた。長者は村人と共に、法然から念仏の教えを受けた。村人たちは念仏の教えを、深く信仰するようになった。法然は桜の木に自らの像を刻んだ。その時像の背を打つと、たちまち血が噴出したという。また法然はその時余った材料を使って、百万遍の大念珠を作り村人たちに与えたという。11月下旬法然は出帆した。

念仏を唱えることにより、この地は漁業で盛んになった。村人は喜び庵を建て法然の御影を安置し、念仏の霊場とした。この庵は大河堂と呼ばれた。後に報恩寺と号したが、さらに講の一字を加え、報恩講寺となった。毎年11月22日から3日間、法然上人着船記念円光大師大会式(だいえしき)を行う。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

帰り道

『平野台の湯 安庵』でひと風呂浴びて

↓↓

http://www.yasuda-kousan.com/hiranodai-an.html

 

 

 

そっから帰ってきて


f:id:KOBANNAD:20180826214818j:imageやはり肉の似合う男ゲンさん

 


f:id:KOBANNAD:20180826214854j:image厚切り塩タン

 

 

 

 

帰りにケーキを買うデブ二人。

 

 

 

 

『絶対お前ら口だけで痩せる気ないやろ』

ってご意見があると思いますが、平にご容赦頂きたく存じますwwwwwww

 

 

 

法然上人二十五霊場最後の1ケ寺は、来月末に四国遍路の予定がありますので、

その時に一緒に回る予定です。

 

 

 

ちなみにアタシは明日まで休みです。

ゲンさん仕事頑張れよー(笑)


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2018年 8月巡礼記 その3 法然上人二十五霊場巡礼in京都

台風一過、皆様ご無事でございますでしょうか。

 

 

私夜中に目覚めてしまい眠れなくなってしまいブログを更新することにしました、KOBANNADでございます。

 

 

 

 

 

 

さて今回は8/19のお話でございます。

 

 

 

 

タイトル通り【法然上人二十五霊場】の京都のお寺に行ってまいりました。

 


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さて、そもそも法然上人さまとはどのようなお方やったのか。

 

 

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。

謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である。

選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

生涯
 
生い立ちと出家・授戒
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国と、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺京都市右京区嵯峨)や醍醐寺京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した。

これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修業をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修業中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。
浄土宗の開宗
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて岡崎の地にあった白河禅房(現・金戒光明寺)に入るが、間もなくして東山にあった吉水草庵に住んで、念仏の教えを広めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。
延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難
詳細は「承元の法難」を参照
元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。
讃岐配流と晩年
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。

承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に入り、吉水にもどった。

建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は現在の知恩院法然上人御廟の場所に建てられた。

法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王九条兼実、関東武士の津戸三郎為守(つのと)・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子・宇都宮頼綱らが著名である。
死後・嘉禄の法難
詳細は「嘉禄の法難」を参照
法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦広隆寺境内の来迎院)に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

ちなみに法然上人二十五霊場につきましては

 

 

 

 

 

法然上人二十五霊場(ほうねんしょうにんにじゅうごれいじょう)は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院が25箇所のほかに、番外である「縁故本山」と「特別霊場」が1箇所ずつあり、計27箇所となる。

円光大師二十五霊場とも言い、宝暦年中(1751年 - 1763年)のころ、大阪・難波の順阿、京都・洛西の廊誉という2人の僧の発起によって、法然と御縁の深い霊場二十五箇所を巡拝したことに始まるといわれ、1924年大正13年)に史実や記伝などに徴して若干の寺院の更改が行われたが、1959年(昭和34年)3月法然上人750回忌を迎えるに際して、『元祖法然上人霊蹟巡拝の栞』が刊行され遺跡を紹介しているが、宝暦年中のものを踏襲している。1974年(昭和49年)に浄土宗開宗800年を記念し、再興された。また、当霊場は浄土宗の寺院を中心にした巡拝であるが、法然の御霊跡を巡る霊場であるので真言宗天台宗などの寺院も含まれている。

札所は中国・四国地方から近畿地方に渡る。また、二十五箇所の霊場を巡拝するのは、法然上人御入寂の御命日である1月25日や、念仏来迎の聖衆の二十五菩薩の数にちなむとの説である。(Wikipediaより)

 

 

http://www.25reijo.jp/    ←公式サイト

 

 

 

 

 

 

以前のブログでも書いた話ですが、

ゲンさんと京都の寺社仏閣巡りをしていた時に知恩院さまに行きまして。

 

ゲンさんの実家が浄土宗なこともありまして、その時から始めさせておりますが。

 

 

なにせここんとこ大雨だのなんだのと予定が狂うパターンが多くてw

 

 

 

 

今回は京都をがっつりと回ってきました。

 

 

 

 

 

 

まずはいつもの如くデブ遍路……ではなく

2名のデブ巡礼者がレンタカー借りてまずは比叡山

 

 

 

 

 

 

比叡山の東塔、西塔を抜け先日行った横川の手前に


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ここから山道を徒歩で下って行きます。


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f:id:KOBANNAD:20180825031412j:image片道15分くらいかかりましたね。


 

 


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特別霊場  青龍寺さま

 

 

 

青龍寺(せいりゅうじ)は、滋賀県大津市の郊外、比叡山西塔北の谷にある寺院である(所在地については後述)。黒谷青龍寺ともいう。法然上人二十五霊場の特別霊場。大黒天出現の地という伝承から、大黒天を安置し、大黒谷と呼ばれていたのが黒谷となったという。京都の金戒光明寺の地を黒谷というようになったことから、元黒谷といわれている。天台宗であるが、浄土宗総本山の知恩院が管理を行っている。

比叡山延暦寺は東塔、西塔、横川(よかわ)の3地区に分かれ、それぞれがさらに「○○谷」と称される小地区に分かれる。これらを総称して「三塔十六谷」というが、これらとは別に、「三塔十六谷」に含まれない「別所」が2か所(黒谷、安楽谷)ある。青龍寺はこのうちの黒谷別所に位置する。黒谷は西塔の釈迦堂から北に約1.5㎞離れた山中である。青龍寺の位置は京都府滋賀県境にまたがる比叡山京都市側にあり、行政区分のうえでは京都市左京区八瀬秋元町に位置するが、住所の表示は延暦寺と同じく「滋賀県大津市坂本本町4220」となっている。

開基は天台座主良源(慈恵大師、通称元三大師)と伝える。久安6年(1150年)法然が18歳のとき、青龍寺の叡空の門に入った。叡空は彼を「法然源空」と名づけた。法然は承安5年(1175年)43歳のとき浄土宗開宗に至るまで、そこを経典の探求の地とした。織田信長比叡山焼き討ち元亀2年(1571年)により、法然房の建物は燒失した。当時法然の墓もあったという。現在ここには一切経を納める報恩蔵がある。この霊蹟は比叡山延暦寺の好意で、浄土宗総本山知恩院が、昭和42年(1967年)青少年修練道場として再興した。若い世代に念仏信仰を伝えており、浄土宗系の高校などが使用している。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825032025j:image納経印

お寺まで山道を下ってきたということは、帰り道は必然的に登りになるという話(´;ω;`)

 

 

既にデブ二人足パンパン( ;∀;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして三千院で有名な大原の地を目指す途中でゲンさんがネズミ取りに引っかかるwwwwwww

 

 

 

スピード違反wwwwwww

 

 

 

 

ドンマイwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

三千院の前を通りすぐの場所にあります

 


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f:id:KOBANNAD:20180825032525j:imageゲンさんの背中が寂しそうだよねw

 

 


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法然上人二十五霊場第21番札所 勝林院さま

 

 

 

勝林院(しょうりんいん)は、京都府京都市左京区大原三千院の北にある天台宗の寺院。魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)と号する。魚山は大原の円融院、往生極楽院、勝林院、来迎院、融通念仏寺などの諸寺院の汎称で、声明の中心地であった中国の長安の外にある山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名称に由来する。本尊は阿弥陀如来法然上人二十五霊跡第21番札所。別称として「問答寺」、「証拠堂」とも呼ばれる。古くから来迎院(左京区大原来迎院町)とともに天台声明の道場であった。

歴史
この寺は、承和2年(835年)、円仁(慈覚大師)によって開かれたと伝えられる。円仁は唐で経典などに独特の旋律を付けて唱える声明を学んできており、この地にそれを伝えた。しかし、その後寺は荒廃してしまう。

長和2年(1013年)、寂源によって復興され、勝林院が建立された。その際、寂源はここを声明研鑽の地としたので声明も復興された。聖応太師良忍が天仁2年(1109年)に来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て「魚山大原寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。

文治2年(1186年)には法然と顕真などによる宗論、いわゆる「大原問答」がこの寺で行われた。

江戸時代初期、将軍徳川家光の時代に春日局の願によりお江の方、崇源院の菩提のために本堂が再建された。享保21年(1736年)正月の火災により本堂は焼失するが、安永7年(1778年)に再建される。江戸時代には4坊(理覚坊・実光坊・法泉坊・普暁坊)があったが、現在は宝泉院・実光院の2院が残る。
大原問答
寛仁4年(1020年)、寂源が延暦寺の僧である覚超と遍救を招請して、勝林院の本堂で法華八講を開いた。大原入道少将と呼ばれた寂源の名前にちなんで、これを「大原談義」と称した。この時、本尊が自身の意を放光によって表したので、集まった聴衆が大いに驚いたという。それより、本尊は「証拠の阿弥陀」と称されるようになった。
文治2年(1186年)、顕真の招請により、勝林院で法然が浄土宗義について明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたっての問答が行われた。これを「大原問答」という。顕真らが法然に12の難問を投げかけていったものであるが、法然はそれらに対して念仏によって極楽浄土へ往生できることをはっきりと示した。その時に、本尊の阿弥陀如来が光を放って法然の主張が正しいことを証明してみせたという。そのため本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。
念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825032939j:image納経印が【大原問答】ってのも面白い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に車は京都市内へ

 



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百万遍さんで有名な 法然上人二十五霊場第22番札所 知恩寺さま

 

 

 

知恩寺(ちおんじ)は、京都市左京区田中門前町にある浄土宗七大本山の寺院。百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)と称され[要出典]、単に百万遍とも通称する。山号は長徳山。院号は功徳院。本尊は阿弥陀如来。京都における浄土宗四ヶ本山のひとつであり、法然上人二十五霊跡第22番札所でもある。御詠歌「われはただ仏にいつか葵草 心のつまに掛けぬ日ぞなき」。「百万遍」は付近の交差点名及び通称地名にもなっている

もとは皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川京都市上京区、現在の相国寺付近)にあった。その所在地から、賀茂の河原屋といった。円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。

法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。

1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により空円が念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。皇室の篤い帰崇を受け、国家安穏を祈願する祈願所となった。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区油小路通一条上るに元百万遍町の町名が残る)。

1523年(大永8年)頃、知恩院と本寺争いをして敗れ、第一の座次を知恩院に譲る。

1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通荒神口上る)に移された[要出典]。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)、現在地で再興された。

1995年に京都府指定有形文化財に指定。2017年、建造物9棟(御影堂・釈迦堂・阿弥陀堂・御廟・勢至堂・鎮守堂・鐘楼・惣門・西門)が国の重要文化財に指定された。
境内
南門から参道を入って正面に御影堂、手前左手に阿弥陀堂、右手に釈迦堂があり、左右には塔頭寺院が並ぶ。境内には、土佐光起の墓、鳥居元忠の墓(塔頭龍見院内)などがある。

境内や本堂・庫裡はしばしばフリーマーケットの会場として貸し出されており、特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(会期は概ね10月末から11月初めまで)の会場となっていることで知られている。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825033543j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして更に、法然上人二十五霊場第23番札所 大本山 清浄華院さま

 

 

 

 


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清浄華院(しょうじょうけいん)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四箇本山(他に知恩院知恩寺金戒光明寺)の一つである。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。寺伝によれば平安時代清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊跡23番である。2012年現在の法主大正大学名誉教授の真野龍海。

草創
清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華)密(密教)浄(浄土)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇後鳥羽天皇高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない。

皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。
歴史
清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される。

少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。

向阿は初め三井寺にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院丹波国越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。

その後、清浄華院は14世紀中頃に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は(暦応4年(1341年)足利尊氏後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であったなど諸説あるが、少なくとも観応二年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。

いずれにしろ清浄華院室町時代を通して京のメインストリートであった室町通りに面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。

こうした立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等凞は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。これは等凞の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。さらに等凞は義教の将軍就任以前からの知己であったことにも由来すると考えられている。このあたりの事情は檀越の一人で等凞と親しい関係にあった万里小路時房による『建内記』に詳しい。

等凞の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流の本山」とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。

当時の京都における浄土宗は、幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、また浄土宗内でも当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が貴顕の帰依を集め大きな勢力を持ちっていた。そのため朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した鎮西派寺院は清浄華院の他にはなかったのである。しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。

しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。 天正年間(1573年-1592年)豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に新黒谷へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。一方、そんな清浄華院の衰微とは対照的に、知恩寺知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。

江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、紫衣勅許も徳川幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。

しかしながら皇子・皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院や開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・文仁親王常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。

当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家、山科家、東園家、姉小路家、甘露寺家、松木(中御門)家、嵯峨(正親町三条)家、堤家、山本家、下冷泉家、六角家、坊城家、錦織家、玉松家等がある。地下家や宮家の諸大夫、家司、地下役人の檀家も多かった。

伽藍は寛文期の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため御所の格式と同様の建築物を誇った。

また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保期には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウの宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩薩摩藩会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。

明治期に入ると明治初年まで戊辰戦争薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、明治44年法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034039j:image納経印

 

へたうま(*´ω`*)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして洛陽の札所でもありましたね、

法然上人二十五霊場第24番札所 くろだにさんこと 金戒光明寺さま。

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034240j:imageやはり背中が寂しそうだ(´;ω;`)

 

 


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相変わらず立派な本堂です。

 

 

 

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院知恩寺清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族・公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。

歴史
承安5年(1175年)春、法然比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然は、ここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は、後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。江戸時代初期に城郭構造に改修された。文久2年(1862年)には、京都守護職の本陣となった。第二次大戦後、「黒谷浄土宗」として一派独立するが、現在は浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825034553j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、更に京都の町をゆくデブ二人。

 

 

 

 

法然上人霊場 縁故本山 永観堂禅林寺


f:id:KOBANNAD:20180825034645j:imageゲンさん「コバさん、腹減りました!」

 

…………まぁメシ食えるんなら大丈夫やなwwwwwww

 


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はいはい入場料入場料wwwwwww

 

あー、この雰囲気。

まさに観光寺wwwwwww



 

中に入って納経帳預けるパターンね、金閣寺とかと同じパターンね、はいはい観光寺観光寺。

 

 

 

で、その納経帳預ける時のオバハンの態度悪い悪い悪い悪いwwwwwww

 

 

思わず「法然上人霊場でこんな態度の悪い扱い受けたんは初めてやのう!霊場会に電話したろか、コラ」って大人気なく吠えてしまいましたすいませんw

 

 

 

……だが反省はしていないw

 

金儲けに必死な寺って一定数あるよねぇ。


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禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

歴史
空海弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初真言の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033年 - 1111年)の時に念仏の寺へ変化を遂げる。永観は文章博士の源国経の子として生まれた。11歳で禅林寺の深観(花山天皇皇子)に弟子入りし、東大寺南都六宗のうちの三論宗を学ぶ。三論宗には奈良時代の智光以来の浄土教の思想があるが、浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に戻るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、東五条の悲田院の近くの薬王寺阿弥陀像を安置して、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。禅林寺永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。

禅林寺12世の静遍僧都(1166年 - 1224年)は、もと真言宗の僧で、当初は法然を批判していたが、後に法然に帰依して念仏門に入った。法然禅林寺に住したことはないが、静遍は禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。

明治9年(1876年)には禅林寺浄土宗西山派の東本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂した。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825035833j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に


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法然上人二十五霊場第14番札所 正林寺さま。

 

 

 

正林寺(しょうりんじ)は、京都市東山区渋谷(しぶたに)通東大路東入3丁目上馬町(かみうまちょう)にある、浄土宗の寺院である。ここには、平重盛(小松殿)の別邸で、48の灯籠をともして念仏させたという灯籠堂のあったところで、平家没落後、九条兼実の山荘となっていた。ここに法然を招き、法談をし、法然を戒師として兼実が剃髪出家した旧跡である。法然がここに居住していたこともあるという。法然上人二十五霊跡第14番。

歴史
ここには、もとは平重盛の別邸で、後に九条兼実の山荘となっていた。建仁2年(1202年)正月、ここで法然を戒師として兼実が出家した。元久2年(1205年)8月、法然が瘧(おこり)をわずらい、その時聖覚が修法を施したという。建永2年(1207年)3月、四国に流罪の時も当御房から出発した。応仁の乱で、ここは灰燼に帰した。義山が復興に努め、弟子の恵空が遺志をつぎ、真盛辻子にあった正林寺を移した。享保20年(1735年)九条家より河原殿の建物が移築され、大師堂・方丈などになった。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825040238j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

そして昼飯は京都ローカルラーメンチェーン店の天天有の祇園店へ。

 

 

 

何年ぶりやろwwwwwww

 

 

 

 

 

 

車は伏見へ

 

 

 

 

 


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法然上人二十五霊場第15番札所 源空寺さま

 

 

来る途中であるサイトの口コミに

「やたらお寺のオバチャンがお守りとかお菓子とか買わせようとセールストークかましてくる」

って書いてあってマジかよと思ってたら

 

……………はい、マジでしたw

 

 

ゲンさん引いてましたwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源空寺(げんくうじ)は 京都府京都市伏見区瀬戸物町にある、浄土宗の寺院である。詳しくは宝海山法然院源空寺と称する。法然上人二十五霊跡第15番。

歴史
源空寺は、寺伝によれば、蓮乗房忍空が住持する草庵だった。忍空は当初法然の「選択集」を非難したが、後に後悔して、専修念仏を行じていた。法然63歳の時、奈良東大寺の大仏殿、再建落慶供養の導師を努めた後、帰途、忍空に請われるままに、宿泊し説法をした。それを聞いた木幡の里の人びとは涙を流し、念仏の教えに帰依した。人びとが法然の御影を欲しがったので、法然は、書写して法語を書きためておいた紙を用いて、「張貫の御影」を作り、忍空に与えた。建久6年(1195年)、忍苦は草庵を念仏道場に改め、御影を安置した。慶長17年(1612年)幡随意が徳川家康に願い出て、当地に移転した。その後、嘉永元年(1848年)に火災で焼失している。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825040940j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

さて、この日の打ち納めです。

 

 

西国三十三観音霊場 善峯寺さま

新西国霊場 柳谷観音さま

と並んで長岡京あたりを西山といいますがこの地で有名な

 

法然上人二十五霊場第16番札所 光明寺さま。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180825041245j:imageいや、広いわ


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f:id:KOBANNAD:20180825041323j:imageこちらも立派な本堂です。

 



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光明寺(こうみょうじ)は、京都府長岡京市粟生にある寺院。西山浄土宗の総本山。法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である。また紅葉の名所としても広く知られる。

奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。

そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」と言われている。

その後、法然を慕い帰依した弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198年)に法然ゆかりの当地に念仏三昧堂を建立したのが光明寺の直接の始まりである。のちの嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという。

法然の弟子である西山上人証空が西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が、証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えだし、光明寺の他に禅林寺永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。

明治9年(1876年)には光明寺浄土宗西山派の西本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至る。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180825041543j:image納経印

 

 

 

 

 

帰り道は茨木のすみれの湯で温泉につかり

京橋で蕎麦食って帰りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲンさんが罰金で凹んでますwwwwwww

 


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アニメ【ゆるゆり】の綾乃ちゃんばりにゲンさんの顔見たら『罰金バッキンガム』言うてやって下さいwwwwwwwwwwwwww

2018年8月巡礼記 その2 地元東大阪の寺社仏閣

 

まだまだ暑いさなか。

 

 

本日8/23夜9時過ぎ、大阪に台風来るからってことで職場のお店が早じまいしまして帰ってまいりましたが、

同じ大阪の交野市には避難指示が出ているのに、

大阪市内のアタシの住んでる場所はやっと小雨がパラついてきた感じでw

 

風は朝からキツかったけど。

 

いつもより遥かにのんびりしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ってことで8/10のお話を書こうと思います。

 

前回のブログの翌日の話です。

 

 

 

お盆も近いし、11日は亡くなった叔父の命日でもあるので

本家の墓参りに行こうかなと思ってたんですが、

親戚連中に会いたくない(笑)ので予定を1日早めて行ってまいりました。

 

 

 

 

東大阪にお墓があるのですが、

なんとなく気分的に自転車でゆるゆるとサイクリング気分で朝から出かけました。

 

 

 

墓に向かう前に途中にありますウチの氏神様の【都留彌(つるみ)神社】へ。

 


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Wikipediaに無かったので、こちらのサイトを詳しくはご覧ください

 

https://spiritualjapan.net/osaka-tsurumi/

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823213741j:image御朱印

 

 

 

 

そして墓参りに。

 

 

 

 

 

オッチャン、俺少しはお経上げるの上手くなったかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、墓参りを済ませて帰ろうかなとも思ったんですが。

 

 

せっかくなので近隣の神社を巡ってみようかなと。

 

 

 

 

 

まずは


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長瀬神社。

 

 

 

 

こちらもWikipediaが無いので

 

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/shnagase/

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823214959j:image御朱印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに近鉄大阪線を一駅南に下ると

 

 

 


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彌刀(みと)神社

 

 

彌刀神社(弥刀神社、みとじんじゃ)は大阪府東大阪市近江堂一丁目にある神社。


祭神
祭神は速秋津日子神速秋津比売神という水戸(港)や河口の神であり、鎮座地の近江堂という地名は大水戸が転訛したものであるという。
歴史
創建は不明だが、762年(天平宝字6年)には大和川(現在の長瀬川)の洪水で長瀬堤が決壊したことにより社殿が流失したという(『続日本紀』)。延喜式神名帳には河内国若江郡二十二座のうち官幣小社として記載がある。本殿は1991年(平成3年)3月に造替された。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823215245j:image御朱印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこから北上しまして

 

 


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彌栄神社

 

 

弥栄神社、彌榮神社、彌栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)は、牛頭天王スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。

他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社)、祇園神社、広峯神社天王神社八雲神社須賀神社素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。

弥栄神社 (東大阪市) – 大阪府東大阪市にある神社。中小阪と宝持に二社ある。(一時期合祀されていた)(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823215557j:image御朱印

 

 

 

 

 

 

 

 

さらにほんの少し北に

 

 

 


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小坂神社

 

Wikipediaがありませんでした

 

https://mawarisute.blog.fc2.com/blog-entry-342.html

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823215949j:image御朱印

 

 

 

 

 

 

 

そこから西へ戻って

地元布施のえべっさん御朱印を貰いに行こうと思ってたら途中に

 

 

 


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か、河内西国!?

 

しかも浄土宗!

 

これは目下法然上人二十五霊場巡礼中のアタシとしましては園光大師法然上人さまのお導きだと。

 

 


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素晴らしいお地蔵とお会い出来ました!

 

 

こちらもWikipediaが無かったので。

 

http://www.kawachisaigoku.jp/temple_map/32_enmeiji/index.html

 

河内西国についても

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823220436j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

そして布施のえべっさん

 


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f:id:KOBANNAD:20180823220744j:image日本一デカいえべっさんやそうなw


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しかしウチの地元はマイナーな神社ばっかなのね(´;ω;`)

 

https://fuse-ebisu.or.jp/

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180823221005j:imageしかもスタンプやないけw

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、お正月に長野で手に入れた眞田神社さまの御朱印帳が残り1枚になりました。

 

 

 

 

もうここしかありませんね。

 

 

 

 

真田山にあります。

 


f:id:KOBANNAD:20180823221230j:image三光神社

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180823221348j:image本殿賽銭箱横には真田幸村公のねぶたがあるんです。



 

 

三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町宰相山公園にある神社である。

反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。(Wikipediaより)

 

 

 

 


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無事御朱印帳も真田繋がりで終える事が出来ましたし。

 

河内西国………ちょっと気になるなぁ。

2018年8月巡礼記 神戸八宮巡り

 

さてさて今回は8/9のお話でございます。

 

 

前回鞍馬寺で新西国霊場を無事満願する事ができまして。

その時に由岐神社さまで御朱印を頂いたんですが。


f:id:KOBANNAD:20180815161509j:image以前に建勲神社さまで頂いた御朱印帳が残り8ページ(だと思い込んでいた)になってまして。

 

 

 

 

 

かつて生田神社に参拝した時に見つけて気になっていた

【神戸八宮巡り】

をやろうと思いまして。

 

http://www.eonet.ne.jp/~kstakakurasuma/1miya8miyahe.html

 

 

 

 

実際に朝から神戸に向かいました。

 

 

 

まぁ普通はやはり一宮から回るんでしょうが、

 

【遠い所から先に回って帰り道の距離を少なくする】

という参拝の仕方が染み付いちゃってますので

 

まずは大阪からいちばん遠いJR神戸駅に向かって七宮神社から。

 


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七宮神社(しちのみやじんじゃ)は神戸市兵庫区七宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。

「白藤家記録」に七宮神社は「延喜式」の八部郡汶売神社とある。主祭神である大己貴命は、大国主命大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神の七つの御名を称えて七宮神社という。
祭神
大己貴命・大日霊貴命・天児屋根命
歴史
神功皇后三韓征伐凱旋の時、大国主神を山の尾の波打ち際に奉斎。また、会下山方面の山麓に衆落を作っていた時代に、北風家が祀つた神が兵庫に移ったともいわれる。

応保元年(1161年)、経が島築造で難航した平清盛は、家臣阿波民部重能の進言を受け、社殿を造営。以後平家一族の崇敬が篤かった。
天正10年(1583年)1月19日、正親町天皇より七宮大明神の勅額及び三種の神宝の絵画を下賜される。
慶長7年(1602年)8月、片桐且元大久保長安が社殿造営の用材・太刀等を奉納。
享保20年(1735年)には繁華街を成し、各地の船舶業者が難を避けて当社に祈願した。
元禄5年(1692年)10月の指出帳に「七ノ官大明神除地、真言宗高野山学侶方蓼上普門院末寺、神宮寺社僧 眞栄」とあり、維新まで真言宗の神宮寺の社僧がいた。
寛政11年(1799年)西出町に住居していた廻船業を営む高田屋嘉兵衛は幕府の命で巨船を造り、国後島択捉島に向うに先だち、模型船3隻を献納して海上安全を祈願した。
明治6年1873年)6月村社に列す。
明治8年(1975年)2月郷社となる。
明治10年(1877年)5月県社に昇格。
大正11年(1922年)境内を改修。
昭和3年(1928年)社務所を改築。
昭和20年(1945年)神戸大空襲により、宝物等の全部を焼失。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815162720j:image御朱印貰いに社務所に行ったらお留守でした。

で、書き置きを頂いて御朱印帳の貼る場所を確認してたら…………

 

あれ?

残り10ページあるやんwwwwwww

 

数え間違ってたのかwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

そういえば先日行った観心寺さまには楠木正成公がおられたなぁ。

楠木正成公といえばここ神戸の湊川の戦いで亡くなられて、湊川神社があったよなぁ。

 

って地図アプリを開いてみると……

 

おぉ!

七宮から次の目的地までのちょうど間に湊川神社があるやないかい!

 

 

 

 

よし、もう一冊の正月長野で頂いた眞田神社御朱印
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も持って来てる事やし思いきって神戸神社巡りにしよう!

 

 

 

 

 

で、七宮神社からまずは湊川神社を目指して

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815163743j:image途中御朱印はありませんでしたが、猿田彦神社がありました。

 

猿田彦さまといえは先達の神さまですから。

当然おまいりを致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

湊川神社に到着!


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f:id:KOBANNAD:20180815163940j:image巫女さんかわいい。


 

 

 

 

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格別格官幣社である。

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格別格官幣社である。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815173823j:image湊川神社御朱印

 

 

 

 

 

そして湊川神社からさらに北上し、

大倉山の駅近くに

六宮・八宮神社があります。

 


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八宮神社(はちのみやじんじゃ)は神戸市中央区楠町に鎮座し、生田裔神八社の六宮神社と八宮神社とが合祀された神社。

神功皇后三韓征伐の帰途、生田神社の裔神八柱の神を8か所に奉斎された内の2社で、坂本村の鎮守社。

明治12年(1879年)10月村社に列す。
明治20年(1887年)最初の神戸市役所が新築されるため、八宮神社が現在地に移転。
明治42年(1909年)5月7日、楠高等小学校(現・湊翔楠中学校)新設により六宮神社が八宮神社に移転。
大正4年(1915年)10月30日、神饌幣帛共進社に指定される。
大正14年(1925年)9月29日、正遷宮。本殿北側に六宮神社、南側に八宮神社が鎮座している。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

さて、

大倉山といえば神戸のローカルラーメンチェーン【もっこす】の総本店がある場所。


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しかも24時間営業です。

この日10時前くらいでしたが、


f:id:KOBANNAD:20180815164818j:imageチャーシューメンを喰らう!

 

 

 

 

やっぱりなんかパンチ弱くなった気がするなぁ。

 

 

 

 

 

そのまま店を出て向かうは次の五宮神社……


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への道中に近代的なお寺を発見!

 

 

東福寺(とうふくじ)は、兵庫県神戸市兵庫区にある寺院である。
歴史
寺伝によると延暦年間に操勅僧正(弘法大師の師匠)が開山。源平の戦いで一時焼失。延宝2年燈譽酉傳上人により浄土宗に改宗。本堂は、天明2年・明治39年昭和11年に建て替える。山号の伝説では、昔は海岸線が現在よりずっと山側にあって、湊川は流れが深く、船舶が上下し潮水が山門にまで達していたといわれる。
阪神大震災により、本堂庫裡共に全壊、平成10年に再建。(Wikipediaより)

 

 

 

更に登っていくと


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f:id:KOBANNAD:20180815165252j:image臨済宗のお寺で祥福寺さまというそうです。

 

お寺の方と少しお話をしたらなんと本来なら関係者以外入れない内陣から

奥の仏塔までおまいりさせて頂けるとの事。

 


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f:id:KOBANNAD:20180815165532j:imageありがたやありがたや


 

 

祥福寺(しょうふくじ)は兵庫県神戸市兵庫区五宮町にある臨済宗の仏教寺院。
歴史
貞享2年(1685年)12月、もと僧正眼が営んでいた平野五宮神社のほとりの小庵に、雲巌和尚によって創建され、盤珪禅師を招いて開山とし、禅寺の道場となった。
盤珪禅師は播州網干(今姫路市内)に生まれ、龍門寺を建て「西に盤珪、東に白隠」といわれるほどの大徳で、禅師を開基とする寺院は、全国で47ヵ寺、元禄3年(1690年)9月3日龍門寺で72歳で歿してから、勧請開山となった寺が150にもおよぶほど尊敬された。
享保年間(1716年~1735年)廬山妙覚和尚が入山。
元禄3年(1690年)の届出には境内16間に6間、本堂も2間に3間に過ぎなかったが、宇和島の伊達家菩提寺から黙伝和尚が来てから、寺域を拡げ僧堂を建て、明和年間(1764年~1771年)には30間に16間となった。
明治元年(1868年)正月、神戸警備のために来た長州藩兵数百名がこの寺にたむろして、兵庫、神戸を護衛した。
明治5年(1872年)、大坂高津の少林寺より匡通和尚が法脈を継ぎ、現在地に伽藍を建て、寺門いよいよ栄えて、妙心寺派屈指の道場となった。
寺は景勝地を占め、光村弥兵衛が寄進の宝塔が緑の山腹に景観美を添えている。
大正(1912年~)初めごろまで、寺の東の丘に梅林があり、梅の咲くころには兵神間の風流人でにぎわっていた。
なお平野には浄土宗の東福寺と、禅宗の地蔵院がいずれも検地であったが、祥福寺は創建の日も浅く年貢地であった。
札所本尊聖観世音菩薩は禅堂近くの圓通閣に安置されている。(Wikipediaより)

 

あれ?霊場の札所やなここ。

お寺の方に納経ありますか。って聞いたら無い言われたけど、

ひょっとしたら「御朱印ありますか?」って聞くべきやったのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

このお寺からすぐの所に五宮神社はあります。


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賽銭箱の横に


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御朱印がwwwwwww

 

 

セルフなのかよwwwwwww

 

 

 

 

五宮神社(ごのみやじんじゃ)は兵庫県神戸市兵庫区五宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。

出雲国能義郡天穂日神社よりこの地に勧請され、神功皇后が、三韓へ行かれた帰りに巡拝された一社とされる。古来より奥平野の産土神

江戸時代には寺社改めの時に、生田神社からは裔神八社の一つとして届け出ている。 明和の書上には氏神五ノ宮(幕府領の)境内二十八間に十二間、拝殿三間に二間、山神地神の小祠ありとある。

奥平野には、生田神社奉斎の時に祭主を命じられた海上五十狭茅の家と伝えられる名家があり、明治4年(1872年)湊川神社の創建で、兵庫県より湊川神社氏子に指定された時も、生田神社との深い関係を嘆願して、旧来通りとなった。(Wikipediaより)

 

 

 

 

実は後で分かった話ですが、

セルフ朱印ではなく手前の民家らしき建物で御朱印は頂けるそうですwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

 

五宮神社からバス通りへ向かいバスに乗り

次の目的地四宮神社に

 

 

 

降りたバス停を南に下れば四宮神社

北に登れば諏訪神社

 

 

って事で


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f:id:KOBANNAD:20180815170444j:image諏訪神社に向かうのだが、なんじゃぁこの坂道は!

f:id:KOBANNAD:20180815170529j:image本殿たどり着いた時には足パンパンw

 

 

仁徳天皇の皇后である八田皇后の離宮鎮護神として鎮斎されたとされる。 生田神社と長田神社の中間に位置することから、古くは中宮と称されていた。 1182年頃の治承・寿永の乱源平合戦)のおりに源義経が武運を祈ったという伝えがのこる。

諏訪神社(すわじんじゃ)は兵庫県神戸市中央区の諏訪山に鎮座する神社。

諏訪山公園(金星台、ヴィーナスブリッジ)と隣接している。奥の院からさらに上の道を行くと、大龍寺に向かう大師道につながる(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815174111j:image御朱印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして山を降る。

神戸の街中でなんでこないにフラフラなんやろw

サンダルで来たのは失敗やったなぁwwwwwww

 

 


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四宮神社にとうちゃーく!

御朱印にかわいらしい朝顔の絵も書いてもらいました。

 

 

 

 

 

四宮神社 (よのみやじんじゃ)は神戸市中央区中山手通に鎮座する神社で、生田裔神八社の1社。

神功皇后三韓征伐の帰途、生田神社の裔神八柱の神を8ヶ所に奉斎された内の一社で、四の御前神とも云う。

永禄10年(1567年)荒木村重織田信長の命により花隈城を築くと、当社を鬼門鎮護の神として神宝幣帛を捧ぐ。
天正8年(1580年)7月2日、城代荒木村正が敵対すると、信長は怒って池田信輝に落城させた。この時の兵火で社殿悉くを焼失。
安政元年(1854年)9月現在地に移転するも、この後社頭大いに荒廃する。
明治38年(1905年)6月2日失火により焼亡。
明治43年(1910年)社殿を再建。
昭和2年(1927年)11月19日村社に列す。
昭和20年(1945年)6月5日の神戸大空襲で大破。
昭和38年(1963年)5月10日に再建。
平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災で被災。
平成9年(1997年)に改築す。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

かなりバテたアタシは、

 

 

 

 

 

タクシーを拾いましたwwwwwww

 

 

 

まずは一宮神社へ

 

ここからは逆に一宮→二宮→三宮と回って電車の便の良さを考えてみました。

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815171450j:imageオリジナル御朱印帳が安いなぁ。


 

 

 

一宮神社(いちのみやじんじゃ)は神戸市中央区山本通に鎮座する神社。生田裔神八社の1社。

神功皇后三韓からの帰途巡拝された一社で、生田裔神八社の一宮。

創建年代は不詳、一説には4世紀ともいわれている北野村の鎮守社。
元禄3年(1690年)の調書に「市の宮」とある。
昭和22年(1947年)山口神社(奈良県大柳生村)の境内社戸隠神社を模して社殿を再建。
昭和30年(1955年)本殿再建。(Wikipediaより)

 

 

 

 

さらに待たせてたタクシーに再び乗り


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f:id:KOBANNAD:20180815171712j:image二宮神社


 

 

二宮神社(にのみやじんじゃ)は兵庫県神戸市中央区二宮町にある神社。生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の二柱目に当たり、天忍穂耳尊アメノオシホミミ)ならびに応神天皇を祀っている。

古い記録がなく、創設された時期については不明。伝承によれば、生田神社建立の際、神功皇后が現在の神戸市内の天皇家ゆかりの神々を祀る八社を巡拝したことにさかのぼるという。 境内には「稲荷神社」や「椋白龍社」(むくのきはくりゅうしゃ)が置かれている。なお、町名の「二宮町」はこの神社に由来する。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

そしてみたびタクシーに乗り三宮神社

 

 

神戸の中心地三宮のど真ん中にあります。


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三宮神社(さんのみやじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区三宮町に鎮座する神社。生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の三柱目に当たり、祭神としては湍津姫命(たきつひめのみこと)を祀っている。

航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。祭神は水の神である湍津姫命(たきつひめのみこと)。境内に「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれている。

慶応4年(明治元年、1868年)には、三宮神社前において、岡山藩備前藩)兵と外国兵の衝突が発生した。明治政府初の外交事件となったこれを、神戸事件あるいは、備前事件と呼ぶ。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 


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社務所が閉まってたのでよく見たら

13:05(中途半端やなぁ)までお昼休憩!

って書いてました。

 

 

 

 

ブラブラと元町まで歩いて


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神戸餃子専門店の中でもアタシがいちばん好きな【赤萬】さんで昼御飯!

 

ビールは我慢した。

 

 

 

そして再び三宮神社御朱印を頂いて


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八宮巡りは無事満願達成。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815173942j:image八宮巡り全部

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

そこから阪神電車にゆられ一路西宮へ

 

 

 

 

 

 

 

えべっさんで有名な西宮神社へ。
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西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社である。日本に約3500社ある、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。なお、戎信仰については、えびすを蛭子と同一視する説の他にもいくつかの説が存在する。

祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。

創建時期は不明だが、延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。

式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社神祇伯白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。

平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある(同時期の梁塵秘抄にも、諏訪大社南宮大社、敢国神社と共に、廣田神社末社が南宮とされている)。この南宮が現在の西宮神社のことであり、廣田神社の境外摂社である「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内にあるのはその名残りである。
名称
「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。

えびす神を最初に祀ったと伝わる鳴尾や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説
京都から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎信仰の隆盛と共に戎社を「西宮」と限定して呼ぶに至ったという説
「西宮」とは上述の延喜式内社の大国主西神社の事を指すとの説(Wikipediaより)

 

 

 

 

 


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いったん阪神西宮駅に戻って、そこからバスに乗り

廣田神社を目指します。

 

 

途中…………

 

 

 


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西宮警察署バス停

西宮職業安定所バス停

間のバス亭の名前が
【中村】ってのが笑ってしまったwwwwwww

 

 

ゲンさんが捕まって無職になって職探しをする、みたいな感じwwwwwww

 

 

 

ひとりでバスの中で笑いこらえる44歳(ノ´∀`*)ヤバイ

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815173234j:image自販機もさすが西宮やなぁ。

 

 

 

 

 

なんてアホな事を考えているうちに

 

 


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廣田神社ひろたじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社。式内社名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

日本書紀に当社の創建のことが書かれている。神功皇后三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。

当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座し、1945年、空襲による全焼までは西側の廣田山に鎮座していた。戦後、その東側の現在地に移転した。明治4年1871年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮は1931年に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社社領であったという。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。六甲比命神社は、インドの渡来僧法道仙人によって大化の改新の頃に、付近の心経岩・雲ヶ岩とともに、唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺 (神戸市北区)(本尊は毘沙門天・吉祥天・禅膩師童子)奥の院とされた。 六甲山東麓の社家郷山は廣田神社宮司家の所有地であったその名残という。   昭和20年に空襲によって社殿を焼失、現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣工したものである。平成13年に鎮座1800年の喜節を迎えた。

廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていた。「西宮」の語は、後に廣田神社の神郷一帯(現在の神戸市東部から尼崎市西部まで)を指すようになったが、行政区画では廣田神社武庫郡大社村、戎社(現・西宮神社)が西宮町となり、現在は町村合併により西宮市に含まれている。えべっさんで有名な西宮神社は元は廣田神社の摂社、浜南宮で、西宮神社境内の南宮神社がその原型といえる。(Wikipediaより)

 

 

 


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再びバスで阪神西宮へ

途中また中村バス停で笑いを堪えながら(* ̄▽ ̄)

 

 

 

 

 

そしてまさかの阪神尼崎へ

 

尼崎のえべっさん


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尼崎戎神社(あまがさきえびすじんじゃ)は、兵庫県尼崎市にある神社。別名倉持戎大宮、または「ちぢみさん(後述)」と呼ばれている 。商売繁昌の神様「尼のえべっさん」として参拝者に親しまれており、毎年1月9日より11日まで十日戎大祭が開催されている。

創建は醍醐天皇以前の時代であるという伝承が残されている。

正和年間に近江坂本の日吉神社に属する一社が尼崎に祀られ、その後別所町と別所村に分社、別所村字内畑(現・尼崎市西本町五丁目)には戎太神宮が建立され氏神として祀られた 。

戎太神宮は、近代には事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)を経て現在の社号へ改称。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)には、社地が空襲時の家屋疎開用地に指定されたが、終戦により撤去を免れている。

古代の当神社は海辺に近く、漁業航海を守る海の神様としてえびすと同一視された事代主(ことしろぬし)が主祭神とされた。その後市内の商業・工業が発展してからも、商売繁盛の神様として崇拝されている。

またその昔、菅原道真が九州の大宰府に向けて航海する途中尼崎に立ち寄り、立ち並ぶ老松や砂浜の景観に感銘を受けた「琴の浦」に関する逸話にちなみ、学問の神様(天神様)として祀られている。

当神社の社地は南北朝以来数々の戦火に巻き込まれ、また災害を被る毎に社勢が衰え、分断や縮小を余儀なくされていったことから、前述の「ちぢみさん」の別称が付いたと言われている。

現在の社地は東に向かって狭くなる細長の三角形をしており、拝殿等の建築物は西側に寄せられている。社地のほぼ中央に大鳥居が建てられており、周囲には遊具やベンチ等が設置され、普段は神田公園の名称で開放されている。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815174921j:image実はここの御朱印はかわいらしいので有名なのです(ミーハー発言)

 

 

正直、思ってた以上に疲れたw

 

 

 

2018年 8月巡礼記 西国、新西国、法然上人霊場

ふぅ。

 

やっと8月のお話が書けそうです。

 

先月もこんなこと言ってたね、とかツッコミは御容赦下さい。

 

 

 

 

 

 

まずは8/1デース!

 

 

 

 


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仕事辞めてまぁ現在もそうなんですが、1ヶ月以上有給休暇の消化期間がありまして。

 

正直ゲンさんには『夏休み』だの『ニート』だの『自宅警備員』だのと羨ましさを込めたイヤミを言われておる今日この頃ですwwwwwww

 

 

 

 

 

 

実は今年西国の先達の八角朱印を全て集めると1巡扱いになりますが。

先日【満願霊場】の33番谷汲さんで伺ったところ

 

「すいません、先達事務局のあるお寺でしかそれ(八角朱印)の昇補の対応出来ないんですわ」

 

 

何の為の満願霊場やねんって言いかけて止めましたがww

 

 

っていうことで、この日19番革堂行願寺さまを訪れて

 

先達の納経軸に特別昇補の印を頂きまして
f:id:KOBANNAD:20180815132848j:image一番左上のヤツね。

 


f:id:KOBANNAD:20180815133111j:image中先達の申請用紙も頂いたのであります。

 

 

 

 

 

 

 

さて、8/5のお話デース!

 

 

 

 

朝からいつも通りゲンさんとカーチャンを迎えに行きまして

 

 

生駒の山を越え向かいますは

法然上人霊場第11番札所


f:id:KOBANNAD:20180815133342j:image大仏さまで有名

子供でも知ってます

華厳宗総本山奈良東大寺にあります


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f:id:KOBANNAD:20180815133531j:image東大寺指図堂

 

指図堂

 

大仏殿の西にある。法然の画像を祀る堂。鎌倉時代、大仏の復興に携わった重源は、法然の推挙で大仏復興の大勧進職となった。この堂に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたことから指図堂の名が付いたという。浄土教にも関心の強かった重源の招きで法然がこの地で浄土三部経を講じたという。もとこの堂にあった木造釈迦如来坐像(鎌倉時代重要文化財)は奈良国立博物館に寄託されている。建物は江戸時代末期のものであるが、法然上人二十五霊場11番札所であるため、浄土宗側が喜捨等で再建に協力している。(Wikipediaより)

 


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f:id:KOBANNAD:20180815133943j:image中も写真撮って良いよー、と気さくにオバチャンが言ってくれまりました。

 


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f:id:KOBANNAD:20180815134102j:imageよく見ると阿弥陀さまが傾いています。

地震とかで傾いた訳ではなくこういう造りなんだそうです。

 

我々に体を傾けて耳を傾けて下さっておられるとの事。

 

 

「スキーのジャンプみたいやろ」

ってオバチャンの持ちネタなんやろなぁwwwwwww

 

 



f:id:KOBANNAD:20180815134426j:image納経印

 

 

 

さて、そのまま西国霊場第9番札所 興福寺南円堂さまへ。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815134550j:image金堂の修復もほぼ終わりそうですね。

10月には落慶法要が行われるそうです。


f:id:KOBANNAD:20180815134715j:image金髪の欧米の方が御朱印貰ってました。

なかなかすごいな御朱印ブームw

 

外人さんかスタンプラリーになっちゃうのはまぁ仕方ないかなと思うとこもありますが、

中にはお経上げはる方も居ますからねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

で、

大和三山百人一首持統天皇の歌でも有名な香久山を目指します。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815135048j:image法然上人霊場第10番札所 香久山 法然寺さま。

 

 

少林院法然寺(ほうねんじ)は、奈良県橿原市の香久山(大和三山)の麓にある浄土宗の寺院。法然上人二十五霊場の第十番。御詠歌は「極楽へつとめて早く出でたたば身の終わりには参りつきなん」。

元久2年(1205年)3月、法然高野山参詣からの帰途、聖徳太子が誕生したと言われている橘寺への巡拝のおりに庵に一夜の宿泊をした。庵主は法然に帰依し行者と成り、法然を開山とした。
明応8年(1499年)10月、知恩院の保誉は霊夢で「香久山や麓の寺はせまけれど 高きみのりを説きて弘めむ」との歌を法然から授かった。(Wikipediaより)

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815135312j:image納経印

 

 

 

 

 

更に南都の地を車は走る。

 

 

 

 

 

 

法然上人霊場第9番札所

新西国霊場第11番札所

當麻寺(たいまでら)


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當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。

西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

大和七福八宝めぐり(三輪明神長谷寺信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊安倍文殊院、おふさ観音、談山神社久米寺)の一つに数えられる。

本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。

中将姫の蓮糸曼荼羅当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。

古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。

當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
創建縁起
当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。

建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。
平安時代以降
奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく、詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。『弘法大師年譜』には弘仁14年(823年)、空海當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺真言宗寺院となったという伝えがある。

治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺興福寺などの伽藍の大部分が焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂、講堂など、一部の堂宇を焼失した。

平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新西国の霊場は本堂ですが
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法然上人霊場奥の院になります(別途入山料が必要)


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f:id:KOBANNAD:20180815135933j:image蓮の花が美しく咲いていました。


 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815140006j:image法然上人納経印

 

 

 


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さて、一路山を越え大阪に戻ってきた3人はひとまず中華屋さんで昼御飯を食べて、

 

 

 

 

 

 

 


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新西国霊場客番 叡福寺さま。

 


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聖徳太子さまの御廟があるので有名ですね。

 

 

 

叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられている。

この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇用明天皇推古天皇孝徳天皇の陵もある。

寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。

叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また聖徳太子は、仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海良忍親鸞日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。

当寺は、天正2年(1574年)の織田信長による兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(1596年 - 1615年)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。

 

 

太子廟の七不思議
1樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
2鳥が巣を造らない。
3大雨が降っても御廟の土が崩れない。
4御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
5メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後の天喜2年(1054年)に発見された。
6御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
7寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。

 

 

生誕地の橘寺と叡福寺と兵庫県太子町の斑鳩寺とは一直線に並ぶ。
花山法皇は、叡福寺の僧といわれる仏眼の導きを得て西国三十三所を復興した。(Wikipediaより)

 


f:id:KOBANNAD:20180815141246j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

さて、この叡福寺さまから道路を挟んで向かい側に


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f:id:KOBANNAD:20180815141455j:image新西国霊場第8番札所 西方院さま。


 

 

西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向山、寺号は法楽寺。

寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、推古天皇30年(622年)に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。

以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は司馬達等の娘、恵善尼は錦織壺の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の豊浦寺である。

江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称は西方院と改められた。(Wikipediaより)

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815141708j:image納経印

 

 

 

 

 

この日大阪は36度を超える真夏日

 

しかしウチのカーチャンタフだよねぇ。来年70歳なのにw

 

 

 

 

 

 

 

さて、次は
f:id:KOBANNAD:20180815141922j:image楠木正成公がお迎え頂けます。


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新西国霊場客番 観心寺さま。

 

 

 

 

観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている

伝承では、大宝元年(701年)、役小角役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。

弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。

観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていた。

観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。

境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。

室町時代以降は、管領畠山氏の庇護を受けて栄えたが、戦国時代に入ると織田信長に寺領を没収された。しかし文禄3年(1594年)豊臣秀吉によって25石の寄進を受け、豊臣秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われた。江戸時代になると、塔頭槙本院の檀家であった江戸幕府の旗本甲斐庄氏などの支えにより、伽藍の維持に努めた。

安永年間(1772年 - 1781年)には30余りあった塔頭は慶応年間(1865年 - 1868年)には12坊となり、明治時代となって廃仏毀釈が始まるとさらに減り、現在では本坊となった槙本院の他には中院を残すのみである。

2005年(平成17年)には高野山真言宗総本山金剛峯寺より遺跡本山の寺格が贈与された。(Wikipediaより)

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180815142331j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、更に山道をゆきます

 

 

 

新西国霊場第7番札所 金剛寺さま。


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金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派大本山である。山号は天野山(あまのさん)。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている

寺伝ではインドのアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする。奈良時代天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる。弘法大師空海)も修行をしたとされている。平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、治承4年(1180年)には地元の武士である源貞弘から土地を寄進されるなどし、金堂・御影堂などを建立し、再興した。八条院の帰依を受けたほか、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため、「女人高野」と呼ばれて有名となった。

鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。また、この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。また、室町幕府に追われた後醍醐天皇の護持僧である文観をかくまっている。

正平9年/文和3年(1354年)3月には大和国賀名生から北朝光厳上皇・光明上皇・崇光上皇廃太子直仁親王を当寺に移動させると観蔵院をその行宮とし、10月には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として食堂を政庁天野殿(あまのでん)とするなどして南朝の本拠地とした。

正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇直仁親王も京都に返された。そして正平14年/延文4年(1359年)12月には後村上天皇観心寺に移った。

正平15年/延文5年(1360年)には北朝の畠山氏の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失する。さらに、文中2年/応安6年(1373年)には、和平に反対する長慶天皇が行在所としていた当寺に、和平派ゆえに北朝に寝返った楠木正儀があえて攻撃を加え、天皇を当寺から除かせて、しばらくの間占領する事件も起きた。

その後は戦火に遭うこともなく、室町時代の永享4年(1432年)頃からは銘酒天野酒を販売して収入源にしたりし、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70もあって威勢を誇り、江戸時代末期には307石の寺領があった。

しかし、明治時代となって廃仏毀釈のためもあり、塔頭は減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみである。

それでも、主要伽藍などが戦火に掛からなかったので貴重な文化財が数多く残されている。(Wikipediaより)



 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815142951j:image納経印

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの日最後の打ち納め

 

 

 

 

 

西国霊場第5番札所 葛井寺

 

 

 

 


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更に8/7のお話デース!

 

 

 

残すところ後1ヶ寺となった新西国霊場

 

 

 

 

 


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大好きな京阪プレミアムカーに乗り出町柳へ。

 

 

そこから叡山電鉄に乗り換えます。


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f:id:KOBANNAD:20180815150844j:image叡山電鉄出町柳駅構内

 

 

 

そして
f:id:KOBANNAD:20180815150945j:image鞍馬駅を降りれば目的地

 

 


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新西国霊場第19番札所 鞍馬寺

 

 

 

 


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鞍馬寺(くらまでら)は、日本の京都府京都市左京区鞍馬本町に所在する寺である。1949年までは天台宗に属したが、以降、独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山(くらまやま)。鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)によって開山されたという。本尊は、寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。

京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。

なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。
歴史
寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。

今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたもの?)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。

9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようである。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。

鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失している。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失している。このため、堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。

昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。

京都の奥にある鞍馬山山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものでありまた鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。
本尊
京都の北に位置する鞍馬寺は、もともと毘沙門天(四天王のうち北方を守護する)を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった。しかし、鞍馬弘教立教後の現在の鞍馬寺の信仰形態は独特のもので、本尊についても若干の説明を要する。

鞍馬弘教立教後の寺の説明によると、鞍馬寺本殿金堂(本堂)の本尊は「尊天」であるとされる。堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらの三身を一体として「尊天」と称している。「尊天」とは「すべての生命の生かし存在させる宇宙エネルギー」であるとする。また、毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」・千手観世音を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としている。鞍馬寺とは、どこにでも存在する「尊天」のパワーが特に多い場所にして、そのパワーに包まれるための道場であるとしている。「尊天」のひとり、「護法魔王尊」(サナート・クマラ)とは、650万年前(「650年」の間違いではない)、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるという。

本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊はいずれも秘仏であり60年に一度丙寅の年のみ開帳されるが、秘仏厨子の前に「お前立ち」と称する代わりの像が常時安置されている。お前立ちの魔王尊像は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で、鼻が高い。光背は木の葉でできている。多宝塔に安置の護法魔王尊像も同じような姿をしている。このことから「鞍馬天狗」とはもともと護法魔王尊であったと思われる。また、16歳とされているわりに歳をとった姿をしている。(Wikipediaより)

 

 

 

そして


f:id:KOBANNAD:20180815151400j:image新西国霊場 満願致しました!


f:id:KOBANNAD:20180815140034j:image納経印

 

 

 

鞍馬寺境内には

 

由岐神社という神社もあり、御朱印も頂けます。
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由岐神社(ゆきじんじゃ)は、京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。通称靫明神(ゆきみょうじん)。

基本データ: 所在地, 位置 …
大己貴命少彦名命主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。
歴史
祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。

「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中の五條天神社は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五條天神社は祭神が同じである。
境内
本殿と拝殿は、豊臣秀頼により再建。特に拝殿は、割拝殿形式の桃山建築で、国の重要文化財に指定されている。(Wikipediaより)

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180815151918j:image門前の食堂で親子丼ととろろそばを頂いてまいりました。

2018年7月 四国遍路 高知編



今回は


f:id:KOBANNAD:20180814202016j:imageカーチャンと仲良く親子遍路のお話でございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お遍路の話をする前にまずは7/24の話。

 

 

仕事前にウチのカーチャンと梅田で待ち合わせてまずは中山寺へ。

 

 


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お勤めを済ませて一路逆瀬川駅へ向かいます。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814175058j:image目的地はここ。

元々枚方にあった店舗がこちらに移転したのが今年4月で。

 

お遍路始める前に行ったきり伺ってなかったので、

週末にお遍路に行く前にカーチャンと買い物に来たって訳です。

 

 

なんやろ、でも前の時と比べて別人くらい愛想なかったなぁ。

もう通販だけにしよかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、3ヶ月近く前から言っててやっと取れた土曜日の休み。

 

ぶっちゃけ仕事辞める原因になったのもコレなんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

休み取りたくても取れない。

雀の涙にもならない残業代。

上がらない給料増えるだけの拘束時間。

仕事出来ないクズばっかり回してくる。

 

 

 

 

 

 

 

まぁもう正直しんどかったので、

この遍路前に社長に話をして7月いっぱいで辞めることにしました。

 

 

 

 

 

っと、なんかウダウダと書いてしまいましたが、改めて7/28の朝7:00に神戸の新長田からバスで出発いたしました。

 

 

実はカーチャンが昔から一緒に四国行ってる先生たちの個人バスツアーに参加させて頂いた。

 

ってのが今回のお話です。

 

 

 

ですので全国のゲンさんファンの皆様、今回もゲンさんは登場致しませんごめんなさい(笑)

 

 

 


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いわゆる普通のバスツアーで二人で使う座席を贅沢に一人で使用しまして。

 

のんびりゆったり休憩をはさみながら、

 

 

 


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まずは別格4番 鯖大師本坊さま。

 

別格は改めてこちらから2巡目スタートです。

 

 

 

 

 

 

ちょいといつもと違うのは、カーチャンの先生たちの集まりはまた本四国の作法とは違う自分たちのお作法で巡礼されてるので、

郷に入っては郷に従えではありませんが、

こちらのお作法に則ってお勤めを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日東寺で頂いた限定の親玉に、

紫檀の数珠玉(1個500円するほう)を合わせていくことにしました。


f:id:KOBANNAD:20180814191931j:imageこれが普通の

左が男用 右が女用

 


f:id:KOBANNAD:20180814192013j:imageこれが紫檀玉使ったやつ

 

 

 

 

 

出来上がりはいつになりますかね。

 

 

 

 

さて、道の駅にお弁当を予約してあったのを取りに寄って。

 

 

 

 

室戸岬の手前にあります

御厨人窟】へ

 

 

 

 

 

 

御厨人窟(みくろど)は、高知県室戸市室戸岬町にある弘法大師伝説の残る海蝕洞である。御蔵洞とも表記される。四国八十八箇所最御崎寺の近くにあり、番外札所の一つ。日本の音風景100選。なお、隣接する神明窟(しんめいくつ)についても記述する。

御厨人窟と神明窟は国道55号沿いの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である。御厨人窟の向かって右側に神明窟がある。それぞれ祠が祀られており、御厨人窟には五所神社があり祭神は大国主命、神明窟は神明宮があり祭神は大日孁貴となっている。

御厨人窟平安時代初期、当時青年であった弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられている。この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされる。

また、神明窟で難行を積んだと伝えられる。難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられている。神明窟は2012年秋より、落石のため立入禁止となっている。のち2015年より同様の理由で御厨人窟も封鎖され崖前の全面に柵が設けられ、現在は双窟とも洞内への立入はできなくなっている。そのため参拝に際しては柵の前に設置されている賽銭箱および献花台に対して行う事となっている。また納経を希望する者のために五所神社によって納経朱印所である「みくろど納経所」が駐車スペース内に設置されている。

洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は「室戸岬御厨人窟の波音」として環境省の残したい「日本の音風景100選」に選定されているが、上述の通り現在は洞窟内への立入は禁止されているため聞くことは実質不可能になっている。

(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 



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f:id:KOBANNAD:20180814193533j:image納経印と御影は書き置きのものがありましたので頂いてまいりました。

 

 

 

 

 

 

 

個人のツアーなんで勝手が分からないので写真を撮るタイミングがwwwwwww

 

 

 

結局御厨人窟で写真撮れなかったw

 

 

 

 

 

 

 

ってな感じで本四国第24番札所 最御崎寺さま。


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台風が近づいて来てたので逆にカンカン照りにならずに

しかも高知やのに暑くなかったのは幸いでしたねぇ。

 

 

どう考えても走るアタシが悪いんですが、岐阜の谷汲の方がはるかにしんどかったですね。

 

 

 

 

 

 

更に25番札所 津照寺さま。

 


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f:id:KOBANNAD:20180814194624j:image写真撮れなかったんで去年のヤツをw

 

 

ってか去年も天気悪かったんよねw

 

 

 

 

更に本四国第26番札所  金剛頂寺さま。

 

 


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やっと勝手というかタイミングというか

コツが掴めたというかw

 

なんとか写真も撮りながら、お勤めもして。

 

 

 

 

そうそう、納経用品はツアー全体の分は先生の娘さんがまとめて行きはるんですが、

 

アタシは今回初参加で、しかもお金を旅行前から集めたりしてるの知らなくてwwwwwww

 

 

自分でやりなさいという先生からのお達しがあり、自分で納経所に先に行って貰うもの貰って先生たちに追いついてからお勤めをする、みたいな。

 

 

だから時間あんまりなくて、タイトな話でしたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの日最後のおまいりは、

観光バスでは上まで上がれない(四国はこういうのよくありますからねぇ)本四国第27番札所 神峯寺さま。

 

タクシーとマイクロバスに分乗して行きます。

 

 

しかも本当なら翌日の朝から行く予定を早めて(台風が来るから)ですから

わざわざタクシー会社の方も大変やったと思いますよ、ありがたい話です。

 

 


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今回もお隣の神峯神社さまには行けずじまいでしたね。

まぁツアーやから当たり前かw

 

 

 

 

ほぼ単独に近い行動してますが、さすがにそれはアカンよなぁとか考えてwwwwwww

 

 

 

 

 

で、何故か泊まるホテルが御厨人窟の近くなのでまたひたすら戻ってwwwwwww

 

 

 

 

 

 


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もう夕暮れやんwwwwwww

 

 

 

カーチャンに聞いたところ、旅行社に依頼してバスと運転手さん借りて、ツアー自体は先生たちと旅行社とで打ち合わせして決めてるらしいとのこと。

 

 

これ正直ツアープラン組んだ旅行社の人、あんまり慣れてないよなぁとか個人的に思ってたのはナイショwwwwwww

 

 

 

まぁ予定早めたのもあるから仕方ない。

 

 

 

 

 

って考えてみると阪急交通社さんのツアーはよく考えてあるなぁと思いますよ。

 

 

 

 

 

 

いろんな人達のいろんな巡礼の仕方があります。

 

 

どれが良くてどれが悪いなんてのは全然なくて、

 

お遍路さんの数だけそれは存在していて。

 

 

全てを受け入れて

全てを楽しめる気持ちがいちばん大切なんやないかなと

今回それに気付いたのがいちばんの自分にとっての収穫やったと思います。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814201715j:imageさてホテルに着いて

時間があまり無いので急いで温泉に入ってすぐに晩御飯。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180814201827j:imageカーチャンもややお疲れ様な感じでw

 

高知の室戸岬のホテルで出てきたかつおのたたきが冷凍モンでクッソ不味かったのでカーチャンがややキレかけてたのもまぁご愛敬wwwwwww

 

 

まあでもそれは流石に無いわなぁ。

 

 

出てきた食べ物で一番旨かったのが土佐酢で漬けた小アジの南蛮漬けってのもどうかとwwwwwww

 

 

 

夜中に腹が減っても近くにコンビニすらなくて、ホテルの中にも何もなくて(´;ω;`)

 

 

「これも修行や」

とか自分に言い聞かせて(爆笑)

 

 

 

朝、起きたら台風到着wwwwwww

 

泊まってるホテルの屋上にNHKのクルーが来て絶賛生中継wwwwwwwwwwwwww

 

 

ある意味貴重な体験wwwwwww

 

 

 

朝風呂入って、朝ごはん。

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814202651j:imageまぁ普通の和食ですよね…………


f:id:KOBANNAD:20180814202725j:imageぎ、牛乳wwwwwww

 

和食に牛乳wwwwwww

 

 

 

が、この牛乳。

マジうめぇwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

 

あんまり好んで牛乳飲まないウチのカーチャンが普通に飲んでました(*´ω`*)

 

 

 

 

 

 

 


ホテルの向かいには大きな大きなお大師さまの像が。


f:id:KOBANNAD:20180814202911j:image「お前贅沢言い過ぎじゃ」

 

 

 

 

 

すいません。反省します。

 

 

 

で、台風の中一行はまず昨日の続きから

 

 

本四国第28番札所 大日寺さま。

 


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すげぇ雨。

 

 

台風が東から西へといつもと逆にやって来てたので

33番まで行く予定やったので先に33番から戻って来るように行っても良かったのになぁとか思ってますが、流石に言えないw

 

 

 

 

 

 


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そういえばこちらの門前の売店で菅笠買ったんだよなぁ。

 

土佐の手透き和紙の納経軸をやたら薦められたよなぁ。

 

 

 

『墨ギュンギュン吸うで、お兄ちゃん!』

 

 

あのオバチャンに会いたかったけど、

雨なので一行は先を急ぎます。

 

 

今度来た時また寄ろう。

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814203825j:image続きまして本四国第29番札所 土佐国分寺さま。


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この日いちばんの雨のピーク!

 

でぇりゃぁ雨だがや!

 

 

 

 

 

 

今回のアタシの目的の1つがこちらの門前のお店で、キレイな納め札を売ってはるんですね。


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これを頂く予定やったんですが、

 


f:id:KOBANNAD:20180814204130j:imageぐ、ぐぬぬぬぬ。

 

残念です。

またこちらも次回にチャレンジ。

 

 

 

 

 

さて、昼御飯。

 

 

 

何の偶然ですか、昨年来ました

【道の駅 南国】!


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そう!かつおのたたき御膳が有名ですが昨年売り切れで食べられなかったあの道の駅。

 

 

 


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今年は食えた!

 

しかもどっかのホテルと違って生のカツオをちゃんとたたいて作ってある!

 

うまぁーーい(ノ´∀`*)

 

 

 

ウチのカーチャンは土佐ジローの卵でとじた四万十豚のカツ丼食ってました。


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去年アタシが食ったヤツです、やっぱり親子ですね。カツ丼やけどwwwwwww

 

 

 

 

ちなみに隣のオバチャンが「シャモ丼(軍鶏の親子丼)」を何回言っても

『シシャモ丼』

って言い間違えてたのか思い出に残っておりますwwwww

 

 

 

 

お土産も買ってお腹もふくれた一行は

 

 

 

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814205044j:image本四国第30番札所 善楽寺さま。

 

 

 

こちらの納経所には可愛い塗香入れが売ってました。

 

カーチャン塗香入れ欲しがってるんやけど見る時間無かったのが残念です。

 

 

 

 

 

もうほぼ雨は上がって、

 

 

 


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本四国第31番札所 竹林寺

 

隣にある植物園は台風の為に臨時休業。

 

昨年ゲンさんにゴチになったアイスクリン売ってる売店も臨時休業。

 

 

 

残念です。

 

 

 

 

 

そして順番を入れ替えて

 


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f:id:KOBANNAD:20180814205736j:image本四国第33番札所 雪蹊寺さま。



 

 

去年はここの境内で物売りの屋台あったんですけど。

さすがに台風じゃあ無理か。

 

 

 

 

 

 

 

そして今回の打ち納めになります。

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180814210054j:image本四国第32番札所 禅師峯寺さま。



 

 

 

 

 

 

全てのお勤めを終えた瞬間に

台風一過の一陣の風が吹きました。

 

 

 

 

 

 

お大師さまありがとうございます。

各寺院のご本尊さまありがとうございます。

そして四国の全てに今回もありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

帰り道


f:id:KOBANNAD:20180814210339j:image先日の西日本豪雨の時に高知道の一部が土砂崩れで崩壊した部分です。

片側通行になっています。

 

本日現在まだまだ通行止めの道もあると聞いています。

 

 

早く復旧して欲しいものです。

 

 

 

 

 

吉野川あたりで


f:id:KOBANNAD:20180814210541j:image虹がかかっていました。


f:id:KOBANNAD:20180814210605j:imageよく見ると薄いのと濃いのと2本の虹が。

 

 

ありがたい。

 

 

 

 

さて最後は久しぶりの
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美馬半田貞光でお別れしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

次回はゲンさん登場しますよーん!

2018年7月巡礼記その3 滋賀と岐阜と名古屋とふぢえ(笑)

さて、続きましては7/22のお話でございます。

 

ちょっと正直例の大雨で立てていた予定が大幅に狂ってしまいまして。

 

この日は巡礼とは別の予定を入れていたのですが、全てをキャンセルしまして。

 

 

 

ほぼ始発の快速に乗り込み


f:id:KOBANNAD:20180814115846j:imageかつて我らが太閤はんの居城のあった近江長浜の地へ。

 

そう、言わずもがな西国霊場難所の1つ第30番札所竹生島宝厳寺さまへ。

 

フェリー乗らないと行けない。

フェリー高い。

ホンマ難所やわ。

 

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180814120404j:imageあまりに暑いのでよくわからず自撮りとかしだすオッサンw


琵琶湖36度超えてましたw

 

 

 

f:id:KOBANNAD:20180814115246j:image近江牛まん


f:id:KOBANNAD:20180814120525j:image八角朱印


f:id:KOBANNAD:20180814120906j:image前回貰い損ねた竹生島神社の御朱印


 

 

 

そして再びフェリー(臨時便に無理やり乗って)→長浜→米原→大垣と。

 

f:id:KOBANNAD:20180814115236j:image大垣からは樽見鉄道に乗り換えます!


f:id:KOBANNAD:20180814121249j:imageお得なキップを買いまして。


f:id:KOBANNAD:20180814121327j:imageつり革が鮎!


f:id:KOBANNAD:20180814121420j:image谷汲口駅で下車してバスに乗り換えます。

 

外気温なんと39,6度!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アホやん!

もうインフルエンザやん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして
f:id:KOBANNAD:20180814121604j:imageいのりちゃんに出迎えられて

バス停から片道約1キロのもはや寂れた参道を登って

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814121711j:image西国霊場第33番札所 谷汲山華厳寺さま。


f:id:KOBANNAD:20180814121842j:image今日はここで満願するんやでぇ
f:id:KOBANNAD:20180814121859j:image手水場の観音さまが涼しげで一息つけました。




f:id:KOBANNAD:20180814122025j:image更に登る


f:id:KOBANNAD:20180814122048j:image

本堂前にて大先達さんがお一人でおられたのでご挨拶。

 

 

『あっついですねぇ、ようお参りです。』

 

大先達さん「本当ですねぇ、あれ?」

 

『??』

 

大先達さん「お兄ちゃん去年ワシとここで会ってるよね、あの時はお連れさんおったと思うんやけど」

 

『……(思い出した)あぁ!ホンマですねぇ、お父さんのその笑顔覚えてますわ!』

 

大先達さん「何を言うて、照れるがな。まぁ暑いからしっかり水気取らんとあかんで、ホナ!」

 

『はい!ありがとうございます。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こういう触れ合いが良いです。

 

うっとおしい人間関係とかもうこの歳になったらもう辟易しとるんです。

 

特に客商売やっとったらアホみたいなヤツにでも金の為に頭下げて自分磨り減らして今までやって来とるから。

 

 

少しのご縁でエエんですわ。

 

 

【ありがたみを心から感じられるご縁】であれば。

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814123051j:image八角朱印

これで33枚全て揃いました!

 

更に

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814123210j:image

 

西国の満願証は実はここ谷汲でしか貰えません。

 

 

ですから、ウチのカーチャンもゲンさんも姉上も皆様ご立派なお先達さまですが、

初めての満願がみんな揃って中山寺さんなのでまだ貰ってないみたいです。

 

まあ満願印見せるか、普通に先達なら言えば満願証はすぐに発行してくれますけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに先ほども言いましたがバス停から本堂までゆるやかな坂道と石段を含めて片道約1,5キロくらいあります。

 

バスは約30分停車して次のバスが来るのは約2時間近く間が開きます。

 

 

のんびりと参道の食堂で鮎やら鰻やらを食べる事も考えましたが、

 

 

39度を超える気温の中、かつて12番岩間寺で習得した奥義【先達ダッシュ】を使い。

 

さっきの大先達さんとの挨拶&お勤め&納経と満願証を貰って、

再び奥義【先達ダッシュ】を使ってバス停に戻ってきた時運転手さんに

 

 

「にっ、兄ちゃんこの暑い中走ってお参りしてきたんかい!よ、ようやるわw」

 

 

と、正直ムチャかまして笑われたのも良い思い出になりそうなwwwwwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、巡礼のお話はここまでです。

 

 

ここからは名古屋で飲み食いしただけのお話になりますので、

 

 

 

 

巡礼のお話を楽しみにされておられる方はここで読み終えてお待ち下さい。

 

 

 

 

 

では。

 

 

 

 

まぁぶっちゃけ途中でおにぎり2個くらいつまんだりしましたが、

 

仕事終わってほとんど寝ずに、

 

 

しかもほとんど食べずに、

 

 

39度の灼熱の岐阜県ダッシュかませば、

 

 

 

いくらアタシでも軽い熱中症にはなりますよねwwwwwww

 

 

 

 

樽見鉄道に再び乗り込み大垣駅まではもう爆睡。

 

 

 

乗り換えても爆睡。

 

 

更に名古屋で先達DJこときゃんで姉上と待ち合わせしてるのが大須なのに、

金山まで行けば乗り換えとか楽やのに名古屋で寝ぼけて降りてw

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814125113j:imageきしめんを食うwwwwwwwwwwwwww

 

 

なんやかんやと言いますが、やっぱり名古屋駅きしめんは普通にウマイので好きです。

 

 

 

 

 

で、名古屋の婆…………じゃねぇ姉上と合流して。

 

予定より3時間くらい早く着いたのでお約束の如くまずはパチンコw

 

 


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そして何故か大須商店街のど真ん中で遭遇する、ゲンさん…………じゃなくて


f:id:KOBANNAD:20180814125539j:imageい、イノブタ!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして前から行きたかった大須の有名な焼き鳥屋さん【かどや】さんへ

 

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180814125741j:image安定のドヤ顔




焼き鳥マジうんまい!

ただね、この店エアコン無いから夏は行くもんやないw

正直ビールぬるかったしwwwwwww

 

 

秋とかまた行こうっとwwwwwww

 

 

 

で、【お馬のおやこ】という姉上が行く居酒屋さんへ。

 

 


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f:id:KOBANNAD:20180814130025j:imageこう写真だけ見ると仲悪そうね、この二人。

 

 

 

ぶっちゃけ

身体に熱こもって抜けてない状態+睡眠不足+空きっ腹

だったのでもう酒全く飲みたくない状態で。

 

 

緑茶飲んでトマトばっか食ってました。

 

 

ただこちらのお店。

次回ガチで色々と食べてみたいと思ってます。

 

料理人のカンってヤツですが、間違いなく良い店ですよ。

 

マスター初対面でいきなり下ネタかましてきましたけどwwwwwwwwwwwwww

 

 

 

で、最終の新幹線で帰るつもりやったんですが、姉上が泊まってけー!と言うのでお世話になる形でwwwwwww

 

 

 

 

 

姉上のおうちに行く前に

 

 

 

 

 

深夜の

 

 

 

 

YA・KI・NI・KU❤️

 

 

 


f:id:KOBANNAD:20180814130702j:imageにくー
f:id:KOBANNAD:20180814130716j:imageにくー
f:id:KOBANNAD:20180814130740j:imageおにくー
f:id:KOBANNAD:20180814130801j:imageにくー、とBBA
f:id:KOBANNAD:20180814130831j:imageにくー!



 

 

姉上の知り合いのお店が、

姉上のおうちの近くに二件目出したらしいです。

 

和牛は確かにまぁ普通にウマイんですが、

 

アメリカ産やオーストも使ってます。

 

ただ処理の仕方が上手にしてあるので塩で食べてもあまりくさみを感じないのでアタシ的には良い店だと思いますよ、何より安くてコスパも素晴らしい。

 

【よざくら】ってお店です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

姉上宅の
f:id:KOBANNAD:20180814131218j:image銀ちゃんも久しぶり元気だった。

 

 

 

翌朝はやはり近鉄で。

 

 


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名古屋のウマイ店まだまだ発掘したいなぁ。